「人間は偉いものではない、尊いものです」(安田理深)
人間はどのような生き方をして人生を送ることが、人間の生まれてきた本来の意義を知って生きたことになるのでしょうか。
では「尊いものです」の内容は何でしょうか。
「尊」や「貴」の文字は、古くから、徳のある僧侶や、品位の高い崇められ重んずべき人格に冠して、尊者・貴者・貴人・尊き僧・世尊などと使われてきました。
極楽浄土を「尊き所」と呼び、「とうとき道」といえば、仏道を指し、仏事や法会は「とうときわざごと」と言っていたことが書物に出てきます。
万葉のころの歌人山上憶良は、「父母をみれば尊し 妻子(めこ)見ればめぐし愛し(うつく)」と両親を敬っています。
さらに、西暦1603年に長崎で出版された『日葡辞典』には、
Tattooタットイ 神聖な。ほめたたえるべき。祝福されること。
Tattomiタットミ あがめ敬う。尊敬する。
Tattomiaiタットミアイ 尊み合い。
大勢の人々がある事物を拝礼し合う、または尊拝しあう。
このような項目が出てきます。
ここから思い浮かぶことがあります。
お釈迦さまのことです。
お釈迦さまは仏の教えをこの世に広めて、生きとし生きるものすべてを救うためにこの世にお出ましになったと言うことは誰でも聞いています。
このお釈迦さまのことを釈尊とか世尊とか呼んでいます。
これはお釈迦さまを尊敬して中国の人がそう呼び始めたそうですが、元はインドの言葉であるサンスクリット語で、「バガバッド」と呼んでいたのを漢語訳したものと聞いています。
お釈迦さまは祝福され、ほめたたえられ、尊崇されるべき幸せの所有者です。
また古い仏典『スッパニパータ』の中には、「尊いお方さま」「智慧豊かな方」
「真の人(拝まれる人)」「尊き師」「聖者さま」などと人々は呼んでいました。
「幸せの所有者」お釈迦さまを世の中で最も尊敬している方として世尊とお呼びした人々は、その「幸せ」「尊い方」の内容を受け止めていたのでしょうか。
人々が理解した「世尊」の内容は、尊い道、すなわち仏法によって「幸せの所有者」となられ、仏の智慧によって世の中の人間すべて「幸せの所有者」となるように仏法を広める目的のためにこの世の中へ出てこられた方であったというものであったと思います。
安田理深師は、「尊い意味が人間にあります。人間の尊さを自尊、尊重といいます。天上天下唯我独尊というように、尊いといいます。釈尊が生まれた時に、天上天下唯我独尊と叫ばれた。あれは、あらゆる人間が独尊である意義を明らかにするために、世に出られたというのです。」
お釈迦さまが「天上天下唯我独尊」といわれたという話は誰でも知っていますが、この言葉の意味は、本当はとても難しいとおもいます。
この言葉の後に「三界皆苦 我当安之」という言葉が続きます。
この言葉がつながっていることで、お釈迦さまが世尊と呼ばれる意味があると私は味わっています。
『無量寿経』の「道教を高闡して群萠を拯ひ」の言葉と全く同じ内容であることを示しています。この「三界皆苦」の私たち人間である故に、仏法を持って安らぎの境界に立たせたいと願われたお釈迦さまは、「世尊」であり「真の人」であるのです。
私たちが「幸せの所有者」となることは、浄土真宗の教えをいただく側から言いますと、それは阿弥陀如来さまの智慧の恩恵に浴する身となることです。
お念仏申す身となることです。
このお釈迦さまの説かれる仏の教えを聞き、阿弥陀如来の願いをかけられている自分であることを知った人間を尊いと言っておられるのではないかと思います。
その私の存在は、もう私一人のものではなく、仏さまのおはたらきによって生かされている。尊く有難い存在であるとも気づかされています。
同時に、私以外の「いのち」のすべてが、私と同じように仏の悲願がかかっているということに思い至ります。信心の智慧を恵まれるということでしょうか。
このようにかけがえのない私たちの命が日々奪われていくことは日本の未来もですが大変悲しむべきものだと思います。またその命が尊くもないような扱いをされてしまっている現実には閉口するばかりであります。もっと輝ける命であって欲しい。
この新年二日間だけで世界でどれだけの命が奪われているのだろう。それと共にどれだけの悲しみ、苦しみがあったことでしょうか。いつまで繰り返せばいいのだろうか。それを思っているか、そうでないか、生きる道はそれぞれであります。
仏法を聞いて生きていくことの尊さは、私たちの生きる道を明らかにすることでしょう。「余生」という言葉がありますが、私は嫌いです。
「与生」が本当の意味ではないでしょうか。「余ったいのち」ではなく、「与えられたいのち」なのですから。誰から、ご先祖であり、我が両親です。もっと言えば仏さまから願われたこのいのちを粗末にしてはなりません。私はそう常々思っています。
今年こそ、思いを巡らせて、この尊いかけがえのない命をナンマンダブツをいただいて輝かせてみませんか?
住職はそう願っています。ナンマンダブツ。
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