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人間の言葉では助からない

近年の浄土真宗では布教の際、初めて仏法を聞く人のために難しい言葉や専門用語は使わないように勧められています。

私は個人的に疑問を持っています。

確かに一理はあるのかも知れないけど、自分が幼きときに聞いた難しいであろう専門用語が実は長きにわたってお聴聞を重ねているうちに心身にしみています。

これはどういうことなのだろうか。


例えば、お経を難しいからと言って現代語訳したものを読むとしよう。皆さまも1度やってみて欲しい。私はつまんない、そんな感じがしました。つまんないというのは表現がよくないかも知れませんが、どうにもこうにもしみてこないのです。


これは『御文章』も同じような感じです。

何故でしょうか。浄土真宗では現代語訳ではない読み方で800年もの間、粛々とこう読まれ、拝読されてきたのです。

お聴聞にしても、世間話ばかり聞いたり例え話ばかりを聞いていても楽しくないのです。

それは少しは面白いのかも知れませんが、だったら漫才や落語の方が一枚も二枚も上だと思いますよ。

昔は落語家が節談説法を聞いて学んだと聞きます。それが今や落語家の噺をお寺さんが、お坊さんが聞いているのですからね。時代が変われば何とやらですね。


お釈迦さまは、その説き尽くせない仏法を、梵天の要請によってついに説法され、法が言葉になったのです。

言葉は、その時代その人たちの共有のものであると共に、言葉の約束も共有しなければなりません。したがって約束を破ったり、秘密にしたり、私物化することなど許されません。

言葉を超えた法が南無阿弥陀仏となられたからこそ、私は南無阿弥陀仏のお名号に救われるのであります。


究極のところ、私たち人間の言葉では人間は決して助かりません。

この助からないあり方でしか生きられない(死ぬまで煩悩から離れられない凡夫)私に、法が言葉になってくださった阿弥陀さまのお救いを私物化してしまっては、阿弥陀さまのお心を盗んだことになりはしないだろうか。


宗祖親鸞聖人が自力心を嫌われたのは、もちろん救いの【因】とはならないからでありますが、仏法を私物化することを戒められたというようにいただいているのです。

そこから異議や異端、また自由な解釈をしているという問題を考えたいと思っています。


あまり正論を述べますと宗門批判をしてしまう可能性がありますので、皆までは書きません。

ただ、常々、「浄土真宗の生活信条」の実践を生活の真ん中に捉えてきた人生で、改めて他力本願に生きるとはどういうことなのかを問うています。

南無阿弥陀仏を称えたつもり。(声にしない)

お仏壇やご本尊の前でだけお念仏する。

大きな声でお念仏をされる方をよく言わない。

日頃はめったにお聴聞しない生活。


このような姿は浄土真宗のあるべき姿なのだろうか。宗祖親鸞聖人や蓮如上人、歴代の宗主が取り次いでこられた他力の生活とは何なのか。


人間の言葉では決して人間は助からない。


易しい言葉が必要な場合と、親鸞聖人が蓮如上人が使われた言葉を共有すればこそ、また一回聞いてわかる世界ではありません。

何せ私たちは、聞いた端から忘れてしまうのですから、度々重ねて仏法聴聞をしていかねば、とてもとても身にはつかないようです。


わからないまま、疑うまま、その私たちの生き方、歩み方を全部熟知された阿弥陀さまが、足りないものがないように整えられて六字の言葉に凝縮して声となって私に届けてくださっているのです。

そして、その届けられた阿弥陀さまそのものが私にきちんと受け止められたら、【証拠】が私の愚痴の口に表れるのです。それが、


南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ、なまんだぶ、と声となってくださいます。

これが、阿弥陀さまの誓いを、願いを受け取った証なのですね。


人智を超越した仏智が届けられ、私の身心に宿ってくださいます。

皆さまの口は南無阿弥陀仏と声になっていますか?皆さまのご先祖さまは、皆さまの口が南無阿弥陀仏と動いてくださることを常に願い、はたらいていてくださるのですよ。


ということは、皆さまが南無阿弥陀仏と称えることが私たちができる最高のご供養ではないでしょうか。


死ねば仏ではないよ。


南無阿弥陀仏が私の口から出てくださった時にこそ、私の往生が定まる時なのです。

そして、それからの人生は仏さまとご一緒の喜悦の人生であります。

どんなことに出あっても、「有難い」と生きていきたいと私は思っています。

なかなか難しいことではありますが。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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