人間には三度の誕生がある
- 超法寺の住職

- 8月25日
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一度人間に生まれたからと言って人間にはなれません。オギャーとお母さんのお腹から生まれただけでは、自分の思いや自分の都合ばかりで自身の喜びを感じることもできなければ、自分の周りにいる人の喜びを感じることもままならない中、ただ生きているという生き方になります。
確かに人間は、お母さんのお腹から生まれて人間の歩みを始めます。その様子を『大無量寿経』には、お釈迦さまがお生まれになったときの様子として出されています。
右脇(うきょう)より生じて現じて七歩(しちぶ)を行ず。
とあります。
お釈迦さまは、母親の右脇から生まれ、そしてそのまま大地に立ち、七歩を歩まれたというのです。
これは人間が人間の身をいただいて生まれてきたことを説いておられるのです。
お釈迦さまが地上に立たれてから七歩歩まれたということは、六道[迷いの世界]を超えてさらにもう一歩を踏み出す命をいただいて生まれてきたのが人間だということです。
六道とは、自分の思いと自分の都合で生きていく世界を六つに分けて説明してあるのです。
迷いを離れてもう一歩を踏み出す命をいただいた現じて七歩を行ずという言葉から仏教では人間のことを七歩現行人と言います。
これこそが人間が生まれた時の本当の名のりだというのです。
人間は自分は迷っている、自分の都合、勝手ばかりで生きていたと気づくことがなければならない。それに気づくことができた時が、二度目の誕生なのです。
「生まれてきてよかった」、「生きてよかった」、「あなたと出遇えてよかった」と言い切ることのできる私になりたいと宣言すること、それこそが【仏法を聞くことの大切な意味】なのです。
二度目の誕生をして仏法に出遇うのですね。
人間の最終目的は【往生浄土】です。
お浄土とは、人間が根源的に願い続けている真の共同体のことです。共に出遇える世界、共に同じく一体となって、あなたと出遇えてよかったと言える世界、つまりお浄土に生まれていくのが人間の命です。
人間には三度の誕生があります。
一度目は、まず身をいただいて生まれる。
二度目は、仏法に出遇って浄土真宗のみ教えに出遇って、南無阿弥陀仏のお念仏を心の灯火として生きる私になる。
三度目は、与えられた[余ったではない]命を生き続けて、命が終わる時に阿弥陀如来のお慈悲の中に間違いなくお浄土に生まれさせていただきます。
浄土に生まれるということは、【人間成就】ということです。
自分の思いと自分の都合ばかりで生きている私、出会いを切り捨てていく形でしか生きられない私は、まさに『観無量寿経』の物語の通りにしか生きていけない人間だったのです。
韋提希夫人は誰でもない私のことだったのですね。
私には、仏法をいただいてお念仏を申しながら生きていくより他に人間になる道はない。
実るほど、こうべをたれる稲穂かな。
頭を下げるのではありません。
生きる喜び、人間に生まれた喜びを知らされますと自然に頭が下がります。
これこそが仏法に出遇うということの一番大きな意味であるとお聞かせいただきたいですね。
おやすみなさい、南無阿弥陀仏




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