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執筆者の写真超法寺の住職

人生に行き詰まったら

令和5年3月2日(木)朝日新聞より


褒められたい、人より優れていると認められたい。そんな人生に行き詰まった時、人生の指南書のように手に取られてきた仏教書がある。


浄土真宗の宗祖、親鸞(1173-1262)の教えを伝える「歎異抄」。仏教の枠を超えて、人びとの心をとらえ続ける魅力はどこにあるのだろう。


親鸞は平安時代末期に生まれ、源平の争乱が続くなかで育った。幼くして出家し、やがて「専修念仏」の教えを説く法然の弟子となる。

阿弥陀仏の誓いを信じて、念仏をとなえれば、生きるものはみな往生(死後、浄土に生まれること)できるという教えを継承し、さらに独自の思想を展開していった。


「歎異抄」は親鸞の死後、弟子の唯円がまとめたとされる。元々の教えとは異なる説が広まっている現状を嘆き、生前の親鸞から直接聞かされ、「耳の底に留まる」言葉を書き記したものだ。


「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人でさえも往生を果たすのです。ましてや、悪人が往生を果たすことはいうまでもありません)最も知られているのは、教科書で読んだ覚えのある人も多い、この言葉だろう。

常識的な道徳観では理解できない逆説を、どう考えたらいいのだろう。


「『歎異抄』講義」(ちくま学芸文庫)などの著書がある阿満利麿•明治学院大学名誉教授(日本宗教思想史)は、この教えも親鸞が法然から受け継いだとみる。そのうえで、ここでいう善人、悪人は「人間の振る舞いの道徳上の善し悪しを問題にしているのではありません」と指摘する。


問われているのは、往生を求めるうえでの自己認識なのだという。自分を善人と考えて、自力で功徳を積もうとする者は、阿弥陀仏の救い(他力)をたのむ心が欠けている。

むしろ悪人の自覚がある者のほうが、自力での往生を断念して他力をたのむ信心が定まるため、浄土に生まれることができる、というわけだ。


「悪人の自覚があるほうが、人間が未完成な存在であることに気づきやすいのでしょう」


「歎異抄」に、「煩悩具足の凡夫」という表現がある。自己中心性から、どうしても逃れたい人間の在り方を、見つめた言葉だという。

他者への優越感を求めてやまない煩悩に突き動かされて生きる人びとが交われば、当然、摩擦が生じる。平気な顔でやり過ごせるうちはいいけれど、どこかで行き詰まってしまうこともある。


「そうした時、自己中心の尺度でなく、より大きな尺度によって自分と世界の位置をとらえ直す役割を果たしてきたのが宗教です」と阿満名誉教授。

「『歎異抄』も、人間が未完成であるがゆえの不安や苦しみに突き当たった時、それを乗り越えるための『大きな物語』を提示してきたのです」


そもそも信仰のために書かれた「歎異抄」。

それが広く一般に広く読まれるようになったのは、実は近代以降のことだという。

「考える親鸞」(新潮選書)などの著作がある碧海寿広(おおみ)•武蔵野大学教授(近代仏教研究)によると、大正時代、「歎異抄」を下敷きにした作家倉田百三の「出家とその弟子」(1917年)がベストセラーに。

それをきっかけに、小説や評論が書かれたり、演劇が上演されたりといった「親鸞ブームが巻き起こった。


ただ、親鸞には自ら執筆した「教行信証」といった主著があるのに、弟子がまとめた「歎異抄」が支持を集めたのはなぜだろう。

碧海教授がその理由に挙げるのは、まず苦労せず読み通せる短さだったこと。

もう一つは、問答を再現する唯円の書きぶりの巧みさもあり、読者が疑似的に親鸞に「弟子入り」するような体験が味わえたこと。

こうした特徴が「読者を通じて自己を確立しようとする教養主義の時代にぴったりだった」


そうして「歎異抄」の読者層が広がるなか、親鸞の教えを忠実に信じるのではなく、その思想について考えようとする人びとが現れる。

哲学者の三木清や梅原猛、思想家の吉本隆明といった日本を代表する知識人たちが、「それぞれの親鸞像を思い描き、考えることで、生きる手がかりを見つけようとしてきた」のだという。


なかでも碧海教授が着目するのは、思想家の鶴見俊輔が説いた「I am wrong(私は間違っている)」の哲学。

自分が「悪人」であるとの自覚から、自らの正しさへの懐疑を持ち続ける姿勢のことだ。


それは、自分の正しさを疑わず相手を責め続け、終わりのない争いに陥りかねない「you are wrong(あなたは間違っている)」の姿勢とは対極にある。


「歎異抄」で描かれる親鸞は、自分を厳しい修行がやり遂げられない存在ととらえ、念仏をとなえても煩悩のせいで喜びがわいてこないとも吐露している。


「自力の限界を認め、できない自分を受け入れると、かえって周りで何が起ころうと揺るがなくなる。人はそんな逆説にひかれるのかもしれません。」【上原佳久】


[できない自分を認めたら]


⭕️自力では仏になれないと自覚(悪人)

◉阿弥陀仏の救い(他力)をたのむ(まかせる)


⭕️自力で功徳を積めると考える(善人)

他力をたのむ心が欠けている


注)正式には親鸞聖人、法然聖人です。

[1173-1263]


注]「歎異抄」の著書は、正式にはわかっていない。覚如上人説、存覚上人説もある。


注意]正しい見解を知りたいならば、私は【本願寺出版社】発行の著書を読むべきだと思う。


注意]読売新聞に広告を載せている【親鸞会】は浄土真宗本願寺派とは関係のない団体である。ご注意くださいませ。

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