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執筆者の写真超法寺の住職

人は人だから

皆さま、おはようございます。

今朝は寒いですね。またカイロが必要になりました。肌が弱いのであまり使いたくないのですが、背に腹はかえられぬ、であります。


さて皆さまは国民の三大義務ってもちろんご存知ですよね。

ニュースでは自民党安倍派による裏金問題で確定申告をしている方が文句を言っていると報じていますが何か変だなぁと感じたのは私だけでしょうか。

【教育】を受けさせること

【労働】をする権利を有する

【納税】の義務を負う


日本国民である限り、この三大義務から逃れる事はありえないのです。ありえないことに文句を言うって、やはりおかしな話ですよね。

それは政治を司る代議士がそのような愚かな事をしていても責める前に主権者たる国民(有権者)があまりに政治に無関心であることがそもそもの大問題だと思います。

衆議院議員総選挙でも約4割が投票行動を取りません。辞退するということは、政治に不満はありません。どうぞ今のままやられてくださいという【賛成票】なのです。

それを行かないのは反対しているからだと思い違いをしているのが現状ではないでしょうか。

反対なら反対で、投票箱に【白票】か、【候補者以外の名を記入する】を入れてくる。

これで投票権を行使したことになります。


私が言いたいのは、【投票率】の低さを言っています。文句を言えるのは、【投票権を行使した人】だけだと思うのです。

そういう私は自慢しますが、投票権を得てから全て行使して来ました。大概のことはやらずに来ましたが、【投票権の行使】だけは100パーセント、どんなに邪魔くさくても、選びたい候補者がいなくても票を投じてきました。

私のためだけではなく、未来の日本を担う若者たちのために一票を投じているのです。


日本を良くしたい、不平不満が少しでもなくなるように思うなら先ずは【投票権の行使】をするべきだと思います。

他人がどうあれ、日本国民である以上【三大義務】は果たしていかねばなりませんから。

義務を果たしてから文句を言いたいなら堂々と言うべきですね。


経済にしても新NISAへタンス預金が流れたからでしょうか、日経平均株価が高騰していますよね。企業のお金が潤沢になれば賃金も上がります。ギャンブルではこうはなりませんよ。

それに気づけばお金をどう運用していけばいいのか。庶民たる私はギャンブルはまずまずやりません。勿体無いからね。

それよりも自分の推し(企業)に、若者がアイドルにお金を注いでいるように私は投資をしています。微々たる金額ではありますが、【円安】で持っているだけでドンドン目減りしていっていますからね。お金に仕事をしていただいて防御策を講じています。


自分は何もしないで他者に文句を言っているのは【他力】とは言いません。

私の問題を私自身がどう受け止め、どう行動していくのかが大事なのです。

大変な納税ではありますが、その私が納めた税金は誰かのためになっているのです。それでいいじゃないですか。

どうして自分には直接関係のないところまで口を挟んだりするんだろう。人間って変なの。


人間って実は複雑に考えています。

でも大切なこと、大切なものを見失ってまでしてはなりませんよね。


永六輔さんは、

生きるということは誰かに借りを作ること。

生きていくということは誰かに借りを返すこ

と。

と言われています。

誰かに借りたら誰かに返そうとも。

しかし人間は借りる時は必死なのに、返すことはしたがらない生き物です。何か恥ずかしいですよね。

貸した人の思いなど考えることはないのですかね。切実な思いでなけなしのお金を貸してくれたかも知れないというのに。そこまでは気が回らないのでしょうか。

やはり自分勝手、自己中心な生き方ではないでしょうか。だから争いが絶えないのですね。


仏さまがどうして私の生き方を見られて泣いてくだされたのか。私がブログにするだけじゃなく、どこどこまで行っても自己中心の殻から逃れる術を知らない生き方をしているからでしょうか。私たちは悲しいかな、常に誰かを責めなくては生きていけないのです。そして常に自分は正しい。これが仏教の教えに遇いにくいのかも知れません。


正しいをそうではなかったと頭が下がりませんと仏法を聞ける状態にはなりなくいようです。

【愚】を知る


親鸞聖人はご和讃に、

弘誓(ぐぜい)のちからをかぶらずは

いづれのときにか娑婆をいでん

仏恩(ぶっとん)ふかくおもひつつ

つねに弥陀を念ずべし (『高僧和讃』)


と、お示しくださいます。

娑婆とは、古代インドの言葉で、sahaの音写で【忍土】(にんど)、苦悩の世界と訳されます。

つまり、阿弥陀如来の真実の力によらなかったら、いつこの苦悩の世界(迷妄の世界)を岀離することができただろうか、という仏德(ぶっとく)を讃えられたご和讃です。


この世に生まれたのは、こうして人間に生まれたのは、娑婆世界を出るためであったのです。


娑婆を出たところが浄土ですから、【浄土往生】こそがこの世に生まれた本懐(ほんがい)であります。

※本懐とは辞書を引くと、もとから抱いている願い。本来の希望。とありました。


【他力本願】に出愚うとは、【愚】にかえる。

人間が人間らしく生きることであります。

人間らしく生きることは煩悩のままに生きることで暴走を促すことではありません。

この世はどこまで行っても【苦悩】から離れることはありません。だからこの苦悩を離れる道を知らされるのが【他力の信心】であります。


蓮如上人は『御文章』で、

「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」

と言われています。このことを仰ったのです。


世の中の方がなかなか気づくことが難しい諸行無常の理を知らされ、他力の信心にいきていくことを知らされた私はしあわせ者です。

それを「たからもの」ともいいます。


今日もそんなことを思いながらナンマンダブツを申しながら煩悩の火を灯しておりまする。

少々過激な言葉を使いましたことをお詫びします。

南無阿弥陀仏

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