お釈迦さまは考えます。
人はなぜ死ぬのだろうか。
それは生まれたからです。
生を「因」とし、死という「果」が生じる。
私たちは生まれた以上、必ず死ぬ運命にあるのです。その中で人間は、「生まれた以上、一分でも長生きすることが正しい」
「長生きできれば儲けもん」
「今週は死なないだろう」
「今月は死なないだろう」
「今年は死なないだろう」•••
心のどこかで、
「自分はしばらく死なないだろう」と、思っているのですね。
若さは、ごまかすことができます。
病も、ごまかすことができます。
しかしながら死はごまかすこともできないし、誰かに代わってもらうこともできません。
それなのに、皆さま「死」んだら自分はどうなるのかがわからなくても平気なんだよ。
これが悲しいことです。
その上、「死ねば仏」などと、なんとなく思っているから、阿弥陀さまが救ってくださると聞いても大した喜びなど感じない。
しかしながら、いざ自分は地獄行きの生き方をしてはいない、阿弥陀さま以外の神仏では私は助からないと聞くとどうでしょう。
それでもまだまだ大丈夫だと思てしまうかな?
仏教で迷いの世界は六道あります。
「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」
人間はそもそも地獄に堕ちる生き方しかできません。
だから、仏教はその地獄行きの私を地獄ではなく安らぎの世界に救うための教えなのであります。
浄土真宗の教えは、
【弥陀の本願を信じて、念仏もうさば仏になる】
であります。
阿弥陀さまのご本願に遇わせていただき、「我が名を申す者を必ず救う」という慈悲の心を聞いて、素直に受け止めて、お礼(感謝)申すのが南無阿弥陀仏のお念仏であります。
皆さまも、人にお礼するのに黙ってしませんよね?
特に嬉しさラージならば、「ありがとう!」と声にしますよね。
南無阿弥陀仏を称えるのは、そういうものだと思います。
だから、他人から「お念仏申しましょう」などと促されるようなものではありません。
お念仏の声が無いのは、きっと喜びに溢れている方があまりに少ないということだから、阿弥陀さまのお心を取り継ぐ、お寺さん、ご講師さんにこそ問題があるように考えます。
ありがたかったり、嬉しかったら、言われなくても自然に声になりますもの。
いつもご紹介していますが、浄土真宗の生活信条には、《み仏の誓いを信じ、尊いみ名をとなえつつ、強く明るく生きぬきます》の実践こそが私たちのすべき生き方では無いでしょうか。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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