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執筆者の写真超法寺の住職

五劫のすりきれ

皆さまこんにちは。寒いですね。

そういえば石原慎太郎さんがお亡くなりになられましたね。亡くなる直前まで執筆をされておられたそうですね。頭が下がります。

若くして「太陽の季節」で芥川賞受賞され、(当時の最年少)参議院議員、衆議院議員、都知事、野党党首などを歴任されました。

あの東京マラソンを始めたのも石原慎太郎さんです。かの石原裕次郎さんの兄でありさまざまな時代を駆け抜けた方でした。

悪者になれる偽悪者たるお洒落な方だったと思います。

私は四人の息子さんがおられたことは知らなかったです。長男は元自民党幹事長、次男は俳優、三男は国会議員、四男は芸術家。

お父さんのDNAを見事に均等に受け継がれていますね。羨ましい限りです。


少しずつ豪快な方が居なくなってしまう寂しさを感じてしまいますね。

もっと特別番組で取り上げていただきたいです。


さて、今日は日頃からお勤めしています『正信偈』についてご紹介します。

「五劫思惟之摂受」(ごこうしゆいししょうじゅ)※意味は、五劫という果てしない長い間、思惟を重ねられ、ついにその願を成就して阿弥陀如来となられました。


これは葬儀の際には一音上げて高らかに読みます。それほど素晴らしいことなのです。

一劫とは、四十里四方の大きな岩石に、三年に一度だけ、天女がその羽衣をもって一なでをする。この、三年に一度、三年に一度が無限に近く繰り返されてゆくうちに、雨だれが石をうがつように、四十里四方の石が次第次第にすり減って、やがて跡形もなくなってしまうまでに必要とした時間の長さを“一劫”というのだそうです。



阿弥陀さまは、私の人生を実りあるものとするために途方に暮れるほどの長い時間をかけて、頼みもしない、感謝もしない、驚きもしない、この私のためにしあげてくださいました。

ただ愚かな生き方に埋没している私たちをお見通しされて、先回りして「誓願」を重ねて重ねて重ねて•••••くだされたのです。


私たちというものは、お恥ずかしながら自分の口では、「いのちを大切に」とか、「二度とない人生を」などと立派なことを言うのですが、それが他人に対して、他のいのちを大切にすることはおざなりにしてしまうような自分勝手な愚かな生き方をしているのです。


私たち僧侶も、口では「今日とも明日とも知れぬ我がいのち」などと立派なことを言うけど、実際には一日一日を大切に生きている自覚もなしに、無感動、無感激、そのような中でいたずらに一日を過ごしていないでしょうか。


『正信偈』のお言葉を味わうとき、阿弥陀さまの側から私のことをこの私自身よりも、もっともっと深く、長く、真剣に考えていてくださっているということを感じます。


色んなことがあった私の人生だけれども、私の人生は、お念仏=南無阿弥陀仏に遇わせていただくことにより光輝くものとなるのですね。

私のような生き方をしながらも、南無阿弥陀仏のおはたらきによりお浄土参りさせていただける素晴らしい人生となることに、感動、感謝、感激を痛感するのではないでしょうか。


これほど身近で親しまれている『正信偈』に、これほど深い阿弥陀さまの願いが込められているなんて•••••有り難いですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


追記

【五劫のすりきれ】は、落語の【じゅげむ】に出てくる言葉ですよ。


今日は単立寺院のある地域でポスティングしました。最近疲れが謙虚に表れてきましたがまだ5,000部ありますからね、頑張ります。

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