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執筆者の写真超法寺の住職

あなたを放棄しない生き方

更新日:2022年5月11日

お釈迦さまは、「人生は苦なり」とお説きくださいました。

生きるということは「苦しい」のです。

何故でしょうか。

それは人間は考える生き物だからです。


動物との違いはここにあります。

よく「癒されるわ」とペットを飼われたり動物園や水族館で声を聞きますよね。

これは彼ら動物は私たち人間とは違い「欲望」ではなく「本能」で生きているからなのです。


「本能」に生きるとは、「ありのまま」の生き方だから、後悔も死ぬことも考えず悩むことすらないのです。

私たち人間は、そうではありません。

ましてや、人間は豊かに生きて当たり前で、順調な人生が当たり前だと思って生きようとします。また学校でも会社でもそれを「必然」と捉えています。


だから、そうではない状況を受け止めにくいしそうでは無い人や状況を避けようとします。

そこに「いじめ」が起こる要因となると思います。全ての人は生まれながらにして不平等。

きょうだいであっても皆違います。


兄姉は弟妹を羨み、逆に弟妹は兄姉を妬みます。人間とはいつでも「無いものねだり」なものです。

このように仕事があれば忙しさに苦しみ、仕事が無ければ暇さに悩むのが人間の悲しさなのです。


しかしながら仏法に出遇うと、これが真反対であると知らされます。

仏さまはいつも私一人を見ておられます。

私が私で良かったと思えるようになっていくのが仏さまと共に生きる世界だと理解していくことができるのです。


私もずいぶんと時間がかかりました。

他人と比べて苦しみ、愚痴を言い、人を傷つけて、挙句のうちに自分自身を傷つけて生きていました。

結局すべて自分へ返ってくるというのに。

これを仏教では【因果応報】という。


それを知らずに自分だけは間違いない!と、いつも自分だけは正しい!と周りを見て「殻」に閉じこもるのです。

これが「孤独感」を生み出します。

でも、どうですか?

人間は決して一人では生きられないよ。


誰かの世話になるからこそ生きていられるのですよ。そして私は一人で生きていない。

私を産み、私を育ててくれた人がいます。

その人への感謝は、どんなに辛くても生き抜くことが感謝することでは無いでしょうか。


【人間は死ぬまでは生きている】

そう言われた方があります。


自分を自分の命を放棄するような生き方は勿体無いし、そんな生き方をしたらいけません。

私が私で良かった!

私は生まれてきて良かった!

そう思えてこそ、こうやって人間に生まれてきた意味なのだから。

動物はどんなことになっても「生きる」。

生き抜こうと必死なのです。


仏教を聞いて、仏法を聞くことを知りますと「当たり前」がないと知らされます。

今をいかにして大切にして生きていくか。


くだらない周りの言動に振り回されて生きていくのではなく、私を一番大切に思っていてくれる人をいつも思いながら生きてみませんか?

「嫌な人」「嫌いな人」も、私を気にして、私のことを頭においてくれる人。

面白いじゃないですか。

構ってくれるんだもの。

どうでも良かったら【無関心】ですよ。

構ってくれるのは私を思い、見ていてくれる人なんだから有り難いよ。


私はそう思えるようになりました。

仏法(仏さまの願い)を聞いて、聞いて、聞いて•••生きていくことを生活の中に取り入れていたら、不思議にそんなものの見方ができるようになりました。


昔、子どもたちの悩みや苦しみの相談を受けるお仕事をされていた方が言われました。

「実は悩んで死にたいです、という子どもがいました。」

どう答えてあげたら思いとどまってくれるかな、と考えて思わず行為いました。

「いいですよ。」と。


ただし条件があります。

「あなたが生まれて今までお世話になってきた人すべてにお礼を言えたら死んでもいいよ。」と。

生まれた時に誰にお世話になったかな。

病院の先生、看護婦さん。

もちろんお母さん。

お父さんも喜んでくれたでしょう。

おじさん、おばさん、お爺ちゃん、お婆ちゃん。

学校や幼稚園の先生たち。

クラスメイトたち。


お買い物へ行けばこれまたたくさんの方々にお世話になったはずですよ。

私を認めて受け入れてくれた友達。

私を好きになってくれた彼氏彼女。

さまざまな人たちのお世話があればこそ、私はここまで生きてこれたのです。

この一人ひとりに「今までお世話になりました。私はこれから死にます。ごめんなさい、今までありがとうございました。」と言うなんて無理ですよね。


仮に言えたとしてもきっと、「そうですか、残念ですね。でも私はあなたに生きてほしいと思いますよ」と、多くの人があなたに生きてほしい!と言うはずです。

それでもあなたは死ねますか?

あなたは決して一人ではないのだから。


それを死のうとする人、命を絶った人は知らないのでは無いでしょうか。

(違っていたら謝ります)


それに気づいた子どもさんは、止まって生きることの選択をされたと言う話を聞きました。

凄いですよね。


私もそれから色々なことに出会っています。

辛くて逃げ出したくなったことは日常茶飯事(恥ずかしい)。

それでもきっと、生きることに意味があるはずです。意味があるからこそ今も私は生きているのだから。


それこそが仏さまの願いなのだから。


先にも言いましたが、人間はいつも無いものねだりであります。

無いことで悩み苦しんでいるのです。

私でいえば、「お金に不自由せず羨ましい」、「嫁さんがいて羨ましい」、「子どもがいて羨ましい」などなど。


でもどうでしょうか。

お金があるから悩んでいる人は世の中に山ほどいることを知らないのでは無いでしょうか。


嫁さんがいるから争い、傷つけ合い生きている人はたくさんいるんじゃない?


子どもがいるから悩み、子どもがいるから親として苦しみ、子どもに先立たれて泣かねばならないのでは無いでしょうか。


いつも私は私の自分勝手に一喜一憂しているのが現実ではないのでしょうか。


私は、私で丁度良いのだ。

そう思えたら幸せじゃないかな。


でも•••••どうして?

それは前世やそのまた前世で私がしてきた報いなのでしょう。

迷いの命を生きるとはそう言うことであります。

死んでもリセットなどされずにぜ〜んぶ引き継いでいるのです。


これをリセットするためには、阿弥陀さまの願いを聞き、阿弥陀さまの願いを受け止めて、受け入れて、ナンマンダブツを言える私になって、迷いの人生を終えていくしかありません。


そうなれたら、きっと最後には「私は私で良かった!」と思えるのでは無いでしょうか。


人間は、阿弥陀さまとお出遇いをさせていただかねば、「老い」、「病気」、「死」からは決して逃れられません。


縁あって阿弥陀さまの願いを知ることができた方は幸せなんですよ。

あなたに阿弥陀さまを寄せてくださった方は本当に素晴らしい人だったのですよ。


私もそんな人にたくさん会わせていただきましたよ。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。


※生きてみようよ。きっと生きてよかったと思えるのではないのでしょうか。


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