ルビンの壺
皆さま、こんばんは。
今日はおかげさまで一日走り回りました。
実家寺にいた頃を思い出すような一日でした。
充実感がいっぱいでした。
また新たな方々とのお出会いが嬉しかったです。
ただ道中、車も多く予定よりかなり移動時間がかかってしまいましたが、お施主さまの温かな心遣いが有り難かったですね。
さて、今日一日お参りして感じたことは、遇い難い阿弥陀さまとの仏縁に遇ってくだされたことが本当に有り難いことなんだなぁ、と感じました。
恩師からは、人間は仏さまのお話を聞くのが一番嫌いなんだよ。嫌いなのに遇わねばならない。聞きたくないのに聞く場に身を置かせていただくことはなかなか大変なご縁なんだよ、とお聞きしています。
だから、間違っても自分の偏見で阿弥陀さまの邪魔をしてはならないよ。
偏見とは何か。
もちろん、こうならねばならないという偏見でありますね。
お念仏を称えなくては助からないとか、疑っていたら救われないという偏見であります。
阿弥陀さまはそんなことをおっしゃっておられませんよ。まかせられない私を既にお見抜きくだされた上でのおはたらきなのだから。
もし私一人が弥陀の救いからもれるようなら私は仏になりません、とのお誓いであります。
すべて阿弥陀さまのおはたらき(他力)でありますよ。
経には、【聞其名号】(もんごみょうごう)、【信心歓喜】(しんじんかんぎ)とあります。
親鸞さまは、自らには真実はないということを真実と受け止めていかれました。
ルビンの壺は、黒を主眼にして見ると壺に見えるが白地を主眼にして見ると、人が向かい合う姿に見えます。見る側を変えてみると全く違ったものが見えるという比喩ですね。
私たちが他力本願を間違えてしまうのは、いつも私が見ることが正しいと勝手に認識しているところだと思うのです。
親鸞さまは、いつでも阿弥陀さまを通して自らに律しておられたのではないかと思うのです。
私は今まで真宗学を専門として学んでいません。だからでしょうか、学はございません。
ただ、今まで多くの諸先輩方々からお聞きした喜びの一端をお話しさせていただいているだけであります。
「師」ではございません。
ただ念仏もうさるべし。
空であろうが、ナンマンダブツとお称えするだけであります。
聞いてくださいましてありがとうございました。
南無阿弥陀仏
我(弥陀)にまかせよ、我が名を称えよ、(弥陀は親になっておるぞ)、必ず私が建立した浄土へ生まれさせて、仏さまにする。
私もそうお聞かせいただいています。
ナンマンダブツ。