今年も皆さまの悲しみの場にご一緒させていただいています。
私自身も二年前に両親を相次いで見送り寂しい日々を過ごしています。
大切な人との別れは身を切られるように辛いものです。
日頃から無常の理についてお聞かせいただいていても実際には時間が解決してはくださいません。より一層、悲しみが辛さを感じることもあります。
では、どうすればこの悲しみを乗り越えていくことができるのでしょうか。
仏教では、人間は苦しみを抱えた存在であると説きます。
愛するものと別れた時に感じる苦しみは「愛別離苦」(あいべつりく)といい、四苦八苦の一つです。
『涅槃経』第十二には、
愛別離苦はあらゆる苦しみの根本である。愛が深ければ深いほど、より一層憂いや苦しみも深くなる。と、説かれています。
愛する者との別れもせつない愁いを伴いますが、l死別による悲しみは愛別離苦の中でも最も深い苦しみです。この愛別離苦は、恩愛別苦とも表します。
英語で表される「ビリーヴメントBereavement」には、「奪う」「奪い去っていく」という意味があります。どれほど深く愛し合っていても、無常の風が吹く時には、生木(なまき)を裂かれるように別れていかなければなりません。
愛は常に別れの危機を含んで成り立っています。
愛別離苦は、そういう愛のはかなさと存在の寂しさを痛いほど感じさせるものです。
作家の亀井勝一郎さんは、一番深い愛について、このように書かれています。
我々は平生(へいぜい)、友達の間でも、しばしば憎しみあったり争ったりして、必ずしも円満な生活を送ってはいない。愛は常に嫉妬や憎しみを伴う。
ところが、もし愛するものや友だちが死んだとしたならば、われわれはどういう感慨を抱くか。平生の憎しみや欠点などを忘れて、その面影の一つ一つが懐かしい思い出になる。争ったことさえ今は切実に回想されるであろう。つまり死に直面して、はじめてわれわれはその人のさまざまな願いや行いや仕事の意味をはっきり知る、
死はにんげんの生命を完璧に語る。死んでみてなるほどああいう人間だったのかということがいよいよはっきりして愛情の涙を流す、ところでもしこの世で一番深い愛があるとすれば、死してはじめて語ることのできる願いを、生きている生身のまま感じる、それが一番深い愛というものではなかろうか。(『愛と祈りについて」)
このように私たちは別れを通じて深く愛を感じます。
別れた後で、相手に対する申しわけなさや罪悪感を感じることもしばしばです。
自分の友だちや恋人、家族がいつか一人で死んでいくということに気づいたなら、私たちはお互いにもっと深く理解しあえるかもしれませんね。
悲しみを理解するために重要なこと
①悲しみは自然な感情です。
②悲しみは亡くなった人との関わりに応じて、一人ひとり異なっている、
③死別による悲しみにはさまざまな感情を伴います。混乱、死の否定、怒り、恨み、不当感、孤独感、罪の意識や後悔、安堵感、無関心、感謝、亡き人との再会のきぼうなど、多様な感情が折り重なって現れ、言葉の喪失、幻想、体調の変化などが起こることもあります。悲嘆というものを理解しやすくするために、直線的な段階としてみるモデルもありますが、実際に悲しみは、さまざまな感情が入り交じって混沌としています。悲嘆を解釈することよりも、ありにままを受けとめることが大切でしょう、
④悲しむプロセス全体が、傷ついた心を少しずつ癒すことにつながっていくということです。ともかくも親鸞聖人が、「悲嘆の感情をことさらに覆い隠す必要はない。泣きたいときは泣けばいい」といわれた受容と深い人間関係に学びたいののです、
(『死別の悲しみと生きる』鍋島直樹)
真の優しさは、悲しみから学ぶことができます。
またいかなる死を迎えようとも、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の他力のはたらきによって、人は皆、み仏となります。阿弥陀さまが成仏されておられるとはそういうことなのです。ただそれを疑わず受け入れていくことが大切です。
気づかなければ往生はおぼつきません。気づいてくれと身をかけて知らしめてくださる故人さまであります。故人さまの願いを知り、知ったまま南無阿弥陀仏を故人さまと仰ぎながら生きていくことが故人さまがお喜びくださることなんだと知ってください。
Thank you Buddha.
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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