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執筆者の写真超法寺の住職

浄土真宗の素晴らしい世界

皆さま、こんばんは。

今日は朝から立川市で仏縁を結ばせていただきました。立川市は通勤ラッシュが激しいため、余裕を持って出ました。

おかげで時間的に十分すぎる猶予を持ち現地へ到着することができました。


さて、今日はfacebookの投稿で、友人らが宗門批判とも受け止められる内容を出していました。(今の私にはとてもこのようなことは言えません)


高校の同級生は、このままでは単立になる選択肢•••などとかなりの過激な発言でありました。

ではそれは何に対してか、「新しい領解文」です。

今まで私も長い間、法要の際には必ずお唱えしておりました「領解文」が変更されたのは確かに驚きでした。

幼少期より耳に親しんできた言葉です。

なかなか暗記できずに情けなかった高校時代。

お寺へ参られる方々の大きな声に育てていただいたのです。


わからない方にご紹介します。

【領解文】

もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生(ごしょう)御(おん)たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。

たのむ一念のとき、往生一定(おうじょういちじょう)御(おん)たすけ治定(じじょう)とぞんじ、このうえの称名(しょうみょう)は、ご恩報謝とぞんじよろこびもうしそうろう。

この御(おん)ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山(かいさん)聖人(しょうにん)ご出世のご恩、次第相承(そうじょう)の善知識(ぜんぢしき)のあさからざるご勧化(かんけ)のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。

このうえは、さだめおかせらるる御(おん)おきて、一期(いちご)をかぎりまもりもうすべくそうろう。



【新しい領解文】(浄土真宗のみ教え)

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ

「そのまま救う」が弥陀のよび声

ありがとうといただいて この愚身(み)をまかす

このままで救い取られる自然(じねん)の浄土

仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)のお念仏


これもひとえに宗祖親鸞聖人と法灯(ほうとう)を伝承された歴代宗主の尊いお導きによるものです


み教えを依りどころに生きる者となり、少しずつ執われの心を離れます

生かされていることに感謝して むさぼり いかりに流されず穏やかな顔と優しい言葉 喜びも悲しみも分かち合い日々に精一杯つとめます


※2023(令和5年)年1月16日、京都の本山西本願寺での御正忌報恩講法要ご満座に続いて、専如ご門主は「ご消息(ごしょうそく)」を発布されました。


◉違和感を感じている方があまりに多いのです。私自身は、そもそも食事の言葉が変わった時もかなりショックを受けました。

ま、この【新しい領解文】とは次元が違うのかもしれないけど。

◉煩悩=さとり(菩提)ではないはず。

 そのままにしておけない罪深いこの私だからこそ、仏のはたらきがあるはず。

さとり(菩提)を妨げる煩悩こそが菩提を求める原動力になっている。【煩悩即菩提】

◉「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」というならば、わざわざ「そのまま救う」などという必要はないはずです。

◉「ありがとうといただいて」が他力の信心を表す言葉として、こんな表現で果たして•••と。

◉「この愚身(み)をまかす」若い子は愚身という言葉を使うのだろうか。わかりやすいように制定されたはずならば、身近な言葉を用いるべきではないだろうか。

◉「救い取られる」ってなんだろう。

【信心正因】が明確にならねば「救い」がぼやけはしないか。

◉「自然の浄土」自然がわからない私だから、阿弥陀さまの仏智の不思議、【本願の浄土】がわからなくなる。自然の浄土からは仏恩報謝は出てこない。

◉領解とは、おみのりに遇わせていただくことにより、それぞれがご法義に遇わせていただけた喜びの中に表れるもの。

◉これまでも精一杯頑張ってきた私たちに、今以上に頑張れと言われたような悲しみに思うと言われた方があります。

お寺は最後の避難場所です。

そう言われた方がありました。

▽あなたはあなたでいいんだよ、そう言ってくださることが阿弥陀さまの世界のはず。

それなのに、私はまだ精一杯頑張っていなかったのか、そう悲観される方がいたら落胆すると思いますよ。(岡本法治師)


◉領解文は、命令されるものではありません。

「私はこのようにお聞かせいただきました」という喜びを語るものです。

蓮如上人は、ご法座の後にお聴聞された方々にどう聞かせていただいたのかをお聞きになられたそうです。


◉私のそのままをそのまま受け入れてくださる大慈悲のはたらきが阿弥陀さまです。

どのような私であろうとも、阿弥陀さまは決して見捨てません。わからないまま、疑っているまま、背を向けているまま、そこへ飛び込んではたらき宿ってくださるのが南無阿弥陀仏のお声ではないでしょうか。


※皆さま、ご一緒に今こそ阿弥陀さまの他力のお心をお聞かせいただきませんか?

私たち僧侶は、わからなくなると『教行信証』にお尋ねします。私の解釈は危ういです。

煩悩具足の凡夫とはそういうものだからです。

尊い阿弥陀さまでも、こちらへもってくれば地獄が近づくとお聞かせいただきます。

身をまかせられない私がいるからこそ、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と私に届いていてくださるのだから。


難しかったですね。

ごめんなさい。

でも、大切なことはきちんと説明し、理解を共有することが大切だと思います。

私は無学習なお恥ずかしいものですから、諸先生方々のお言葉を参照いたしました。

⭕️浄土真宗の素晴らしい世界は、世に迎合しないこと。粛々と800年あまり浄土真宗は歩んできたことを私は誇りに思っています。

今回のハレーションは「迎合」の仕方があまりに激しかったからでしょうか。

「変える」には時間も必要だと思います。親鸞聖人の生き方をもう一度訪ねてみたいものです。

今日お会いさせていただいた皆さま、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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