皆さま、おはようございます。
ゴールデンウィークが明けましたね。
きっと皆さまはかなりお疲れではないかと思われますが気合い入れて頑張ってください。
家族のため、自身のために。
私はお休みはありませんでしたから通常行動です。
ただ腰の激痛は相変わらずで今日はエコーをしていただきます。
また雨になるそうですね。
寒暖差に気をつけてくださいませ。
さて前回の「他力」に続けて【他力本願】の意味合いをご紹介します。
そもそも【他力本願】とは、『広辞苑』には、①阿弥陀如来の本願、また、衆生がそれにたよって成仏を願うこと。②転じて、もっぱら他人の力をあてにすること
このように解説されています。
本来は仏教の意味合いなのですが、世間一般には②の意味に使われているが悲しいね。
イスラム教では、「イン•シャー•アッラー」、
(もしも神(アッラー)がお望みならば)という意味です。イスラム教徒は未来の約束のとき、必ずこの言葉を付け加えます。
例えば、「明日、八時にお会いしましょう。イン•シャー•アッラー」という使い方をします。
これはイスラム教の聖典『コーラン』が、このように言いなさいと命じているのです。
だから、イスラム教徒は将来のことを語る時、必ず「イン•シャー•アッラー」を言わねばなりません。
何故でしょうか。
それは、私たち人間には明日のこと(今日のことも)がわからないからです。約束をしても事故に遭ったり、病気になったり、その他の事情でそれを守れないことがあります。
先のことは神におまかせすればよい。そういう考え方がこの言葉の裏にはあるのです。
これは仏教でも同じじゃないでしょうか。
私たちはそうなろうと努力しますが、先のことは私たち人間の意のままにはなりません。
いくら努力をしても、どうしようもないことがあります。だからこそ阿弥陀如来の願いにおまかせして生きよう。
これが、浄土真宗の生活信条にも言われてあるのではないかと私は思うのです。
昨今ではやたらと、新しい領解文の是非が叫ばれているようですが、それは今、私たちが生きていく中に激論を表立って(門信徒、世間一般まで巻き込んで)するより、私は今こそ『浄土真宗の生活信条』を大切にして実践していくことを共有していくことこそ大切ではないかと思うのです。
だからイスラム教徒が大切にしている言葉を浄土真宗的にすれば、【イン•シャー•ブッダ(阿弥陀)】となるのではないかと思うのです。
それこそが、【尊いみ名(南無阿弥陀仏)を称えつつ(ながら)強く明るく生きぬきます】となるのではないでしょうか。
明日ありとおもう心のあだ桜であります。
無常を生きるお互いは常に阿弥陀如来とご一緒のこの人生を生きていくことが大切でしょう。
阿弥陀如来のご本願を知らずに仰ぐことを知らずに生きると【煩悩の暴走】を招いていくような気がします。毎日報道される凶悪事件のように。人間の欲望は暴走すると恐ろしい。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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