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執筆者の写真超法寺の住職

アテにする心が問題か

 ほめられて有頂天、くさされてペチャンコ。

 でも、私以上でも以下でもない。

 私自身、それに気づかぬ私が居る。 (佐藤哲了師)


大人も子どももほめられれば悪い気はしませんよね。

第三者を通じて褒め言葉を聞けばホノボノとした気持ちになります。

一方で、自分で弱点と思っている性格を身近な者から指摘されるとペチャンコに

なります。

仏教では、人は立場や都合で、物事や事柄を正しく見たり聞いたり反応させない意識が百八つあると教えます。

「慢」もその一つです。これは自と他を素早く比較する意識です。

「執」も。人間は歳を重ねると、人や世の中の世話での骨折りも重なる。

人間として、社会生活を営む上で必要な大切なことです。

しかしながら、高齢になると逆に人に頼みたいこと、力になって欲しい人があります。その際に、昔世話をした相手が、あまり手助けにならなかったり、ソッポ向いたりすると、その人の額に「わからずや」「ケチ」という札を貼ってしまう。

周りの幾人にレッテルを張ると世の中が狭くなり、自分自身がくらくなっていきます。そんな時、お前は人の口車に乗って有頂天になったり(私はそうなりやすい)、ペチャンコになったりしているが、もめられても、くされても、お前以上でも以下でもない。お前自身がそれに気づけとか、また昔の善行をもって、こんな時に力になってくれそうなものだ、と勝手に「アテにする」私の心に背かれた時、ケチとか恩知らずとかと人を憎む、恨む。それが自分を孤独にさせ寂しがっている。


そもそも「アテにする心」がもんだいであるというのに。

これは真実に出遇って初めてそう気づかされるのです。

「慢」「執」にキリキリ舞いしているこの私を日頃の心と教え、真実の言葉に、

南無阿弥陀仏というご本願の名号(はたらき)といい、更に喚び覚まされた根本本能を真実の自己と教えられるのです。

理性で生きる現代人には至難のことではありますが、真実のはたらきにショックを受けて、翻った自己の事実は【回心】と教えられます。


私の上に回心が起こった時から、浄土真宗が始まると親鸞聖人も教えてくださいます。


南無阿弥陀仏

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