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“らしく“行動する

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

「ムカデの足は一本たりとも、他の足の邪魔をしない」

最近は久しくムカデを見ていない。

子供の頃、まだ杉並区永福にいた時はしょっちゅう目にしていた。母がムカデを追い払う姿を今でも鮮明に覚えていますね。お風呂場に出てくることが多かったので、私もきょうだいたちには恐怖でありました。

子供の頃の記憶は素晴らしいと思う。

皆さまはお好きでしょうか。

皆さまは何が苦手ですか?


なかなか気持ちの良いものではありません。

そう言えば、学生時代縁あって奈良県生駒山の信貴山寺(しぎさんじ)へ行った際には驚かされた。

本堂正面に大きな額がかかっていた。

【毘沙門天王】


その額の飾りが二匹の大きなムカデなのです。

二匹のムカデが左右に分かれて垂れ下がっていた。何とも不思議な光景でした。

あまりに気になったのでお坊さんに「なぜ、ムカデが彫ってあるのでしょうか。」と聞いてみると、「ムカデは百足と書くだろう。」

「ムカデは百本の足を動かして走っていく。百本の足が同時に同じように動くんだ。しかも、一本たりとも、他の足を邪魔していない。他の足に迷惑をかけないで、みんな仲良く自由自在に働いています。素晴らしいことですよね。」


「あれしなさい、これしなさい。」

「あれをしたらダメ。」

「できなければ辞めなさい。」


一本一本の足の働きに、文句を言って指導しなくても、ただ信じて、任せておけば、巧みに、みんなが仲良く振る舞って、あんなふうに速いスピードで走っていく。


この世には意味のない生き物などいないのです。私が好きか嫌いかは私の小さな偏見であって決してそれが正しいとは限らないのだから。


小大 その処を得

動静 おのおのの為すあり  (良寛)



「小さいものは小さいなりに、大きいものは大きいなりに、そのとき、そのとき、その場所をよく心得て、適切にピッタリと環境に合わせて、おのおの、よろしく自由自在に行動していくのが一番いい」という意味だそうです。


初めから、「こうでなければならない」という規則に縛られている中ではなかなか思うようにはいかない、ならないのが現実ではないだろうか。

少なくとも私はかなりダメな部類に属しているのだろう。

歳ばかりは人一倍重ねていますが、いつも失敗ばかり。

周りの輪を乱してしまっているのだろう。

苦手なムカデのような誰にも邪魔にならないような生き方とは真逆のあゆみをしているように感じます。


とても良寛さんのような境地にはなれそうもない。


しかしながら、それでも、それでも、と私にそって働いていてくださる見えない力が私にはずっと寄り添っていてくださいます。


いつもギリギリのところで踏ん張れて、微速前進させていてくださるのです。

本当に不思議でなりません。


今日は新たなスキルアップのために資格を取りましたが、いやぁ実にお恥ずかしいことでした。図体は人一倍でっけえのに、不器用が服着て歩いてるってやつですから。

何にもできない。やれない。

取り組む生真面目さだけでした。

それでも講師先生は「ダメだ!」とは決しておっしゃらないのだ。

さすがは牧師さんでもあるなぁと感銘を受けました。全てを受け入れ認めていく姿勢。

こうありたいと私は思いましたよ。

「いい質問ですね。」

「良い視点ですね。」

無駄とかは言われないのです。

できなくても、一緒にやって一緒に乗り越えていく姿勢がありました。

ダメダメ人間からするとただ驚き。

私の周りには無い光景だから。


いずれにせよ、良寛さんは私に「これだけが正しい」と頭から決めつけずに生きなさいと諭されているように感じた。


人は誰でも、みんな同じだ。

みんな、みんな、素晴らしい生命を持つ。


それは人もムカデも同じだと。

〈みんなみんな生きているんだ、友達なんだ♫〉懐かしい歌を思い出しました。


南無阿弥陀仏

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