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執筆者の写真超法寺の住職

「めでたい人生」足利孝之

和歌山県雑賀崎は、ご法義地です。

[浄土真宗の教えが厚い場所]

今も、ご法座は満堂になり人々の信仰心は深いものがあります。

ある同行(どうぎょう)[お聴聞されお念仏を申す人]が臨終を迎えました。

子どもや身内の者が枕辺に座って最後を見届けている時、静かに目を閉じていたが、突然大きな目を開けて枕辺(まくらべ)にいる息子さんに向かって、「ワシのこの命が終わったら赤飯(あかめし)炊けよ!」

突然のことで息子さんはびっくりしました。


〈息子〉

「大事な親に死なれて、どうして赤飯が炊けるか。赤飯は祝いのものじゃ」

〈親〉

「その通りや。だから炊いてくれと言ったんじゃ。ようく聞いてくれ。ワシはは、ナンマンダブツをいただいたその時、死ぬる命とは別れとるんじゃ。生まれる命をいただいたんじゃ。

九十年近くなっても命を終わりとうないわい。でもなぁ、その時が来たようじゃ。

ええか、ワシは死にやせんで。

生まれさせていただくんじゃ。」

〈親〉

「考えてみたら、この歳まで長生きさせてもらって、お前らのようなええ子にも恵まれ、何よりも親鸞聖人さまに出遇わせていただいて、生まれる旅もさせてもろうてきた。振り返ってみたら、めでたい一生じゃった。

誕生は祝いと決まっとる。祝いは赤飯と決まっとろうが。

ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」



素晴らしい世界観じゃないでしょうか。

これを浄土真宗では【念仏者】といいます。

こういう人が【報土往生】されていくのです。

浄土真宗のみ教えに遇うとは、ただ死んで終わる人生ではないのですよ。


先祖代々浄土真宗だから安心ではないのです。

それは阿弥陀さまにお遇いする機会が無いよりは良いのでしょうが、仏法聴聞もしない、ナンマンダブツも声に称えられない•••そんな形ばかりの門徒では悲しすぎませんか?

ご先祖はこの話の中の人のように人生を【往生】するために生き抜いてきてくれたからこそ、この令和までナンマンダブツがこの私に届けられてきたのですよ。

【門徒物知らず】では、ご先祖さまに申し訳ないと思われませんか?


ちなみに【門徒物知らず】とは、【門徒物忌知らず】ということを言います。


本来なら日頃からお寺へ参り仏法聴聞を重ねているから、【忌みごと】を正しく知っているはずなのに、それを忙しさを言い訳にして怠っているから知らない形だけの【門徒】になってしまっていることへの戒め言葉なのです。


正しくみ教えを聞いて、疑いなくナンマンダブツを称えながら生き抜いた人が【即得往生】するのです。


それを怠って人生を生きた人、【仮土往生】(けどおうじょう)すると親鸞聖人はおっしゃっています。

『正信偈』にきちんと言われています。

【仮土往生】少なからず。


【報土往生】多からず。



せっかく素晴らしい浄土真宗のみ教えに遇わせていただいたのに、ホンマもんを知らずに人生を終えて、皆さまの先人(ご先祖、親たち)は喜んでくれるのでしょうかね?


私はこの「めでたい人生」のような最後を迎えて、ナンマンダブツの声と共に人生を終えていきたいと常々考えていますよ。


だって、じいちゃんが、ばあちゃんが、父ちゃんが、母ちゃんが一生懸命に私にナンマンダブツを称えられるようにご苦労してくれたんだもの。

その感謝と恩返しが今の【超法寺】でありますから。


超法寺は皆さまのお越しをお待ちしています。

超法寺住職は、皆さまとお出遇いできるその時を楽しみにしています。


さて今日も一日頑張っていきます。

ナンマンダブツとご一緒に。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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