皆さま、こんばんは。寒いですね。
あちこちで大雪による事故や大渋滞が報じられていますね。お見舞い申し上げます。
例年通りですが、どうぞご用心ください。
車に乗る方は冬タイヤの装着をお願いいたします。最低限のことですよ。
その上でスピードを控えてください。
私たち人間世界に生きる者は「他人のふり見て我がふりなおせ」を心に、今を喜びながら生きていく必要かあります。
ついつい忘れてしまう。当たり前になりがちです。
この世に当たり前などありません。
なぜ私は生まれてきたのだろうか。なぜ生きているのか。生きていることに無限の価値を見出していただく。
それこそが、人間に生まれさせていただき今を生きている者としてのあるべき姿ではないでしょうか。
ましてや南無阿弥陀仏に、弥陀のご本願まことに遇わせていただいた身のしあわせであります。
この人に遇っていなかったら私の人生はどうなっていただろうか。
この人に遇うためにこそ、この世に生まれていただいた、この人と一緒なら、どこに行こうが、どこに住もうが、何の不足もない。
慕いぬき、焦がれぬき、仰ぎ親しませていただける「師」を持つ心が、そのまま、友を懐かしむ心と広がり、人々と手をつなぐ輪の広がりとなります。
皆、人と温かく手を握り合っていく。
宗祖親鸞聖人がご和讃の中で、[本願力にあいぬれば、空しく過ぐる人ぞなき•••]と、生涯を通じて戒められたこと、それは【空過】ということ、[空しく過ぐる]生まれた甲斐のない、生きた価値のない人生であってはならない。
弥陀のご本願に遇うとは、[人生を勝過する道]であります。
この胸いっぱいに喜びの火を灯して、生き抜く力を恵まれる。生きた甲斐があり、生きる所詮がある。この導きこそ苦悩の私が今を精一杯いきる道しるべとなります。
今年も色々ありました。色々な人とお出会いさせていただきました。たくさん悩みました。たくさん辛いことがありました。涙も流しました。腹も立てました。たくさんの人が私から去りました。それは悲しいことですがそれも人間世界を生きる中ではあることなのです。
人間とは自分の思い、価値観によってのみ動くのです。去るものを追ってみてもしかたがありません。それはそれで、今までありがとう!とそのまま受けていくこと。
所詮、私は独生であります。
私は私の【使命感】を一番として生きていきます。
【恩】とは、【喜び】を知らされたものの【心の温もり】であり、そこから【自覚】が生まれると言います。
辛くても受け入れて、喜びながら我が使命感に生きていく。
なぜなら私も無常の命を生きているからです。
この超法寺をお寺としていくこと。
浄土真宗本願寺派寺院としてこの入間市に安穏の念仏道場を残して命を終えていく。
これが私、末田雅裕の使命であります。
未熟な独り者ですが、ここにいるからこそ出会えた人たち、導かれたしあわせ。
あれほど不足ばかりで生きていたこのわたしが毎日喜び、笑顔で優しく生きているなんて不思議です。
かの覚如上人が報恩講式の中に示された【報ずべきは大悲の仏息、謝すべきは師長の恩徳】、まさにこの胸に満ち満ちた歓喜の思いであり、【世の中安穏なれ、仏法弘まれ】の大きな使命感に生きていくのです。
それは他ならぬ宗祖親鸞聖人と共に歩ませていただくのです。
辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、どうしようもない憤りに私は、[しんらんさま]の仏教讃歌を歌わせていただきます。
その中に、「私のとなりにいらっしゃる」、「私の手をとり歩まれる」とありますよね。
さみしい世を、にぎやかに、悲しい夜を、嬉しく、苦しい日を喜んで歩ませていただくのです。
今ある中を、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の声に励まされ、「一人じゃないぞ、大丈夫だ、まかせよ」と、阿弥陀さまははたらいていてくださいます。
今年、私から離れた方には、今まで本当に支えてくださりありがとう。
ひ弱な私を励まして、お力をくださりありがとうございます。
あなたとの出会いを胸に、この超法寺をお寺とするため【自覚】を持ち、【使命感】を持ちながら頑張ってまいります。
《慶しい(よろこばしい)哉、心を弘誓の仏地に樹て(たて)、念(おもい)を難思(なんじ)の法海に流す》
「嬉しいことだ」、「有り難いことだ」と、九十年の生涯を喜びつめていかれた親鸞聖人のみ跡を慕う中に我が命を生きていくことが、私の今すべきことだと考えています。
政治不信だ、人間不信だと叫ばれる今こそ、いよいよ心のつながりを【南無阿弥陀仏】を通して確かめる必要があると思います。
私という「殻」を打ち破り生きていくことこそ、私が超法寺を預かる者としてすべきことだと確信しています。
残りわずかとなりました2021(令和3年)、変わらず新型コロナウィルスに感染しない行動を取って、新たな年を迎えたいものですね。
南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ。
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