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執筆者の写真超法寺の住職

まはさてあらん

❌自力に対する執着の強さ


自信教人信 難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)

[訳]自ら信じ、そして人にも信じてもらうことは最高に難しいことです。


宗祖親鸞聖人は、【まはさてあらん】と、おおせらるれば

(ああ、そうであったのか•••と、つぶやかされました)



流行病によって多くの人々が死んでいった。

その人々を助けてあげたいと願った親鸞聖人は『浄土三部経』を千回読誦しようと思い立ちました。

ところが途中でハッと気づいたのは、「何ということをしていたのだろう、念仏以外は何も善行も必要ないはずなのに、経典を読誦して、その功徳によって人々を救おうなどとは、とんでもない考え違いをしていたのだ。」


まさに絶対他力を信じきるということが、いかに難しいかを示している。


西方極楽浄土で仏になるためには、どんな自力も役立たずなのです。


⭕️私たちがすべきことは、阿弥陀如来のご本願にまかせきること、それのみであります。


これは簡単なことではありません。


〈籠耳〉

「聞いて忘れて 忘れて聞いて わたしゃ

籠耳 お慈悲の水に今日も一日 ざぶりと浸かり ご恩よろこぶ しあわせ者よ」


忘れる私でも何も心配ありません。

だって忘れはしない阿弥陀如来さまがいらっしゃるから。


安心してまかせきること、これのみであります。任せられるまで【聞いていく】のです。


親鸞聖人はまさにこれを実践されて生き抜かれたのであります。


他者を批判したり、非難したり、個人を言葉の暴力で責め立てたりは愚かな人がするのです。

有り難い、ナンマンダブツをお称えしていても人間の性根はこれなのです。

人はそんなに簡単には変わりません。

何十年生きてきたのが、ちょこっと聞いたからって変われやしません。

人の煩悩はしぶといですぜ。


他者を責めるのは、自分だけは正しい、自分だけは間違いないと自惚れている証です。

どんなに著名な和上さんであろうとも、このような言動をする方に私の人生はまかせられやしない。

私たちは阿弥陀如来の前では正しくない生き方だからね。

お恥ずかしいということに気づけない姿は阿弥陀如来さまに照らすことで初めて知るのです。


だからこそ、親鸞聖人は『正信偈』で「化土往生少なからず、報土往生多からず」と言われています。

外見だけの念仏者に私はなりたくはない。


皆さまも、愚かな人に構っていないで報土往生を目指しましょうよ。


ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ

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