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執筆者の写真超法寺の住職

また暫く入院

皆さま、こんばんは。

雪はだいぶ溶けましたね。

今日は先日、追突されました車の見積もりと併せて入院させてきました。

また今回も代車をお借りしました。

何卒、今回はイタズラをしないでくださいませ。犯人殿には一応対策はしましたが、またイタズラをされましたら間違いなく訴状を提出いたしますのでご注意くださいませ。


この世は因果応報です。

そのような過ちは繰り返してはなりません。

人間ですから一度は過ちを犯すでしょうが繰り返すことは愚かなことですよ。

私は仏さまではありませんから3度まではありません。


寺院活動に多大な影響が出てしまうので2度とあのようなことはなさらないよう重ねてお願いいたします。


暁烏敏さんのお言葉をお味わいします。

われわれ人間世界にあって、あの人は悪い、この人はいけない、とばかりいうていて、一人も信じている人を持たないのは寂しいものです。あの人は当てにならない。この人はつまらんと言うて、みなを捨て去って誰にも打ちあけられん。そういうことがあります。

われわれの生活の進みにおいて、だれも信じない気持ちになることがあります。そのときは非常に暗い心に襲われます。そういうところには人間はおられんのです。その時に是(ぜ)とするところが出てくるのです。いわゆる【念仏】です。仏を念ずるという、その心が生まれてくると、はじめてそこにくつろぎが出る。明るい心が出る。

ほどけていくのです。道のないものは是とするところを持たんのです。一番危ういのです。だれのいうことも聞かん、だれにでも頭を下げるということを好まぬ。痛快なことではあるけれど、それほど危険なことはない。信心に入る。信仰に入るということは、だれにでも頭の下がらなんだものが、下がるところが一つできるのです。是とするところが一つできるのです。否定ばかりでない、肯定が出るのです。

「仏説無量寿経•下」1931(昭和6)年


来るなという所に無理に行かなくてもよいではないか。いやだと言う者を無理に引き入れんでもよいではないか。

「涙のにじむ生へ」1925(大正14)年


「わしはこう信じます」と、堅いものを握っておったときには、どんな業(ごう)さらしのことをするかも知れぬ、どんな目にも遭うかも知れぬと案じておった。

戦々恐々(せんせんきょうきょう)として薄氷(はくひょう)を踏むように、一歩ずつが危なかった。しかし、このごろはそんな信心というものを握っていないおかげで、ちっとも危なくない。落ちれば落ちた所にありがたいことがある。また、怒れば怒ったところにありがたいことがある。船に乗ったりすると、多くの人は海が荒れなければよいがと心配する。

しかし、わしは何とも思わぬ。凪いでも(ない)、波が出てもどっちでもいい。凪がいい時には面白いし、凪が悪けりゃまた面白い。どんな目に遭うてもいいのです。子供が死んでもよし、生まれてもよし、男でもよし、女でもよし、どっちでもいい。盗みしても、•••••せねばならなぬときに何でもやる。広い世界に立っておる者には何をしてもあぶな気(げ)がない。まいろうという予定がないから、まいられぬという案じもない。道は決まっておらぬが一つである。向きは一つである。決めなければならぬなら、案じなければならぬが、どこへ行ってもいいのだから道に迷わぬのである。

決めたものがあるときには迷うけれども、どこへ行っても一つとなってしもうたらもう迷いっこはない。どっちへ行ってもいいのだとなれば迷わぬものである。商売の上でも、損をしても得をしても、どっちでもいい。

損をすれば損をしたで面白いことが出てくる。得をすれば得をしたでいいことがある。さっぱりしたもんじゃ。広い世界に出て、堅苦しいことを思わぬようになることじゃ。

「仏説無量寿経講話•上」1928(昭和3)年


こういう心持ちを持って生きるのがナンマンダブツをたよりきって寄りかかって生きる心構えなのですか。う〜ん、素晴らしい。そういう人に私はなりたい。まだまだ甘いですね。

【依憑 許諾】(えひょう こだく)

言葉だけ知っていても実践なくば意味はない。

ナンマンダブツ


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