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執筆者の写真超法寺の住職

まくらの小三治さん

皆さま、おはようございます。

人間国宝の柳家小三治師匠が7日心不全でお亡くなりになられました。81歳だそうです。

今月2日の高座「猫の皿」が最後だったそうです。亡くなる前日も変わることなくお弟子さんと会話されていたと報じられています。

まさに人生を生ききられたのですね。


頭が下がります。やりきった人生って素晴らしい。私もこのような人生を歩んでみたい。

私の場合は中途半端で、小三治師匠とは雲泥の差なのかも知れませんが。

報道では、師匠は今年も3月に病魔に襲われましたが5月には復帰をされエネルギッシュだったそうです。また長年にわたりリウマチを患いながらも高座を務めてこられたことは尊敬に値します。


また、小三治師匠は「まくら」の小三治と言われるくらいに「まくら」=本題に入る前に話す落語が聞きやすくなるための小話のこと。


私たち布教使も、本題に入る前に世間話などをして場を和ませてから話します。

私も、小三治師匠の「まくら」を参考にしていましたので残念です。

しかしながら、生きるとは「縁が尽きれば」今すぐでも命終わっていかねばなりません。

待ったなしなのです。


それなのに煩悩に生きる私たち人間は、他人はそうでも、自分は今日も明日も来月も来年も•••などと思っているのですね。

動物とは違うのです。

動物は本能で生きています。

だから、死ぬことなど知らずに「生きる」ことだけを思って生きています。


だからでしょうか、病気になっても、必死に生きようとします。

しかしながら私たち人間は、なまじかいずれ死ぬことを知っていますから諦めてしまう。

「こんなことなら死んだほうがマシ」などと弱音を吐いてしまいます。


私たち浄土真宗のみ教えを聞かせていただきますと、私は人間的ではなく、どちらかと言えば動物的な生き方になるようになるんじゃないかと思うのです。

つまり人生を私なりに全うする!

生き切る!


弱音を吐かずに、私のすべきことを必死になってやり抜くことじゃないかと考えます。

それを「引退」などして現役を退いたりするから、急に弱々しくなったり、病気になったり、年寄りっぽくなってしまうんじゃないかな。


だからこそ、私は、この度の柳家小三治師匠さんの人生は尊敬できます。

ただ、また素晴らしい人間国宝を失ってしまったことは悲しい。お弟子さんが是非継承してくださればと願っています。


南無阿弥陀仏

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