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執筆者の写真超法寺の住職

まかせてみませんか

皆さま、おはようございます。

小雨が降る日曜日になりました。

今日も横浜市まで来ています。

早めに出てきましたので渋滞に巻き込まれることもなく無事に会場に到着しました。

時間に遅れるということは、大切な時間を奪ってしまうことですからとても良くないことです。平素から気をつけています。


さて、皆さまのお誕生日は何度ありますか。

Kという夜のお仕事をされる方には年に何度もあると聞きますが、通常は人生で誕生日は一度だと思います。

仏教の教えに遇わせていただきますと誕生日は二度あると申します。

一度目はご両親から命を賜り生まれてきた時。

そして二度目はいつでしょうか。


二度目は【往生】させていただくことが定まった時だと言われます。浄土真宗では人生の終わりを死んだとはあまり言われません。

死んだのは私でありつつ、私が人生で抱えていた【煩悩】が死ぬのです。私自身は阿弥陀さまのご本願、南無阿弥陀仏の大慈悲心に抱かれて、阿弥陀さまのおはたらきによってお浄土へまいらせていただくのです。仏[さとり]の命として生まれていくのです。

ただ、私の力では【煩悩】から離れていくことは叶いません。それを仏教では【凡夫】と言います。本来、凡夫のままでは【往生】はできません。だから[死ねば仏]とはならないのです。なぜならば、私の力、自力では救われない世界だからです。

救われることのない私たちを救おうと立ち上がってくだされたのが阿弥陀如来という仏さまであります。この世が無常だというのに、いつまでも若くありたいという間違った生き方をする私、必ず病になるというのにならないようにとサプリメントに頼ったり、美容やヨガに頼ったりする私。それでも身体に悪いものはやめられないでいる自分勝手な私たち。どんなに頑張っても⚪︎んで行かねばならないのに⚪︎んだらどうなるのか、どこへ行くのかが一向に問われない私。[死ねば仏]というのに何故か行き先が天国になっている間違ったものの見方をしている私たち。


真実なる世界を仏さま[阿弥陀]が先手のはたらき【他力本願】の法を仕上げて、【まかせろ救う】と喚び続けて、はたらきを届けていてくださるのです。何もわからない、わかろうともせずに真実の世界に背を向けて自己の殻に閉じこもって生きている私を【南無阿弥陀仏】の声となり、気づいてくれよ、聞いてくれよ、【聞其名号】〈南無阿弥陀仏を聞いておいてくれ〉と他力の信心をススメていてくださるのです。


称えたら救われるのではありません。

お寺に参ったからいいところに生まれるのでもありません。信心をしたから救われるのでもありません。

南無阿弥陀仏は阿弥陀さまのご信心ですから、私の力では称えられません。阿弥陀さまが私に届いて宿ってくださったからこそ、この愚痴の私が南無阿弥陀仏を称えられるようになるのです。


お寺に参るのは、聞かなきゃわからない、安心できない私だからこそ私のために習慣にしていくために参ります。人間は【忘却】するものですから、忘れたら不安になりますから聞く習慣を身につけるのです。


私の信心はあてにはなりません。

そんならいい加減なものを阿弥陀さまは期待してはおられません。


もう既に仕上がってある絶対他力の信心をいただきましょう。安心して生きていける世界です。南無阿弥陀仏、ナンマンダブツです。


南無阿弥陀仏

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