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執筆者の写真超法寺の住職

「に」ではなく「を」です

皆さま、夜分に失礼いたします。

近頃、早寝早起きが身についてしまいました。

歳のせいでしょうか。有り難いやら困ったやら。


さて皆さまは、昨今毎日のように報道されている旧統一協会の話題ですが、もういい加減飽きていませんでしょうか。

私は飽き飽きです。


皆さまは、宗教といえば、何でも神聖なもののように思っていませんでしょうか。

とにかく手を合わせることが敬虔(けいけん)に見える。

私が拝み、信心して、願をかける。

年末年始にあたりまた神社仏閣で願掛けしませんか。きっと初詣、厄除け(除けれましたか?)

一体何をお願いしたのでしょう。

きっと、「私が家族が幸せに」「今年こそ新型コロナが」などと願掛けされたんじゃないでしょうか。


神仏を私の【幸せ製造機】として利用するという魂胆があからさまに見え見えでありますなぁ。


拝んでもご利益がもらえなければ逆恨みして、「神や仏もあるものか」という。

すべて私の心の【欲】、【欲】、【欲】。


しかしながら、きっと自分が大切で何が悪い、この世で一番大切なのは自分ではないか。

こう反論されるのでしょうね。

人間の知恵、常識の範囲は皆、自分中心です。

自分は良くても他人は良くない。

自分は正しくて他人は間違えている。


この私たちの常識に疑問を投げかけられたのが仏教を開かれたお釈迦さまでありました。

自分中心の【欲】が本当に自分を幸せを連れては来ません。そう見抜かれて自分の【欲】こそが自分を苦しめている元凶、煩い悩ませる原因である、と示されたのです。


『法句経』には、

「悪は錆のようなもので、自分から出て自分をダメにする」とあります。


つまり、自分の中に自分を否定する悪しきものが潜んでいる。

「私だけが幸せに」の【欲】が、私を不幸にしてしまう。というこの大矛盾!


それではどうしたら自分の中に巣食う欲望を捨てていくことができるのでしょうか。

宗祖親鸞聖人は、その方法を【南無阿弥陀仏にあり】と示されました。

「必ず滅度に至らせる」という願い(第十一願)から生まれたこの南無阿弥陀仏には、【欲望を滅ぼした真実の世界(浄土)に、我々を導く阿弥陀如来の力がはたらいているというのです。


阿弥陀如来のこの願いに願われていることに気づかされて初めて、自分が自分のみで生きているのではない、他に支えられている事実を受け止める智慧を得るのだ。

南無阿弥陀仏にすべてをまかせる時に、私たちには自分の欲望を超えた自分中心ではない、お互いが拝みあい、信じ合い、支え合う真実の世界に触れることができるのです。(生前、祖母がずっと言い続けていました)


この時、私たちは仏「に」頼ることと、仏「を」頼ることの違いに気づかされるのです。


仏に頼るのは、《欲望満足のため》

仏を頼るのは、《全てをまかせきった信頼の姿》


私が拝む前に、どうか欲につられるなよ、と拝まれています。[今年くらい宝くじ買わない]

信じる前に裏切りを許し信じられています。

願う前から早く気づいてくれと願われています。

その事実に頭が下がった人に、「苦しみは私が」、「楽しみはあなたに」の大慈悲心が明らかになるのです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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