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執筆者の写真超法寺の住職

なぜ生きるのか

「生きる意味」

昨今、人生に悲観し、絶望し自ら命を絶つ方が約30.000人、行方不明者も約30.000人いるとも言われています。交通事故で亡くなる人は年々減っているというのに、どうしてなのでしょうか。

一説には無宗教化、核家族化の影響があると言われます。確かに一番身近でお寺参りをされるおばあちゃん、おじいちゃんと生活を共にしない世の中が増えていますから、仏法を聞く機会がないし、お仏壇にお参りする習慣もないことが原因ではないでしょうか。


習慣がなければ、おばあちゃんたちがお寺に参ることも、お参りする意味ももちろん知りません。会話の中でお寺が語られることもほぼほぼ無いと思われます。

いくらネット社会だと言っても、興味がなければ検索することもないのですね。


最近、超法寺のホームページを閲覧してくださる方が増えてきました。地元入間市の方だけではなく、関東一円の方が住職のブログを閲覧してくださるのは大変嬉しいですね。

ただ、正直あまり常連ばかりで新規はいかがなのでしょうか。


この度は世の中に悲観され絶望を抱える若い人たちに「人生を生きる意味について」親鸞聖人にお尋ねさせていただこうと思います。


【生きる意味】とは、私たちがなぜ生きねばならないのかということです。

なぜ生まれてきたのか。

なぜ生きているのか。

なぜ命を絶つことはいけないのか。

なぜ生きねばならないのか。

ということです。


生きる意味とは、「生まれてきた目的であり、生きる目的であります」


これはすべての人にとって、これ以上大切なことのない、最も大切なことであります。


なぜ生きる意味が大切かと言えば、

生きていくということは、

歩いて行く、走っていく、

飛行機が飛んでいく


どこへ?が問われてきます。

しかし安全な飛行機でも、その目的地へ行く時に、順調な時が基本でありながら、時にはトラブルに見舞われることもあります。飛行機は離着陸が一番危険と言われます。

人間も生まれる時、死ぬ時が危ないと言われるのと似ていますね。

また先日、羽田空港で衝突火災事故がありましたよね。また離陸してすぐ最新鋭機のドアが吹き飛んだ事故もありました。


このように私たちも生まれたら皆が平均寿命を生きれるとは決して決まってはいないのです。

それを「若いから大丈夫」とか、「元気だから心配ない」とか思い込み生きてはいませんか。

また、「死ねば仏」を何となしに期待して生きてもいないでしょうか。

死んだだけでは私たちは決して仏さまにはなれません。死んだだけでなれるなら人間に生まれてはいないのですから。


仏教では、【さとり】を開かねば仏にはならないと仰っています。

つまり、私たちが生きる「人間」はさとりではなく「迷い」の命だというのです。

それはなぜか。なぜばかりだからです。

なぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、なぜ生きていかねばならないのか、なぜ死んでいかねばならないのか、死んだらどうなるかがわからないからそれを「迷い」の命だというのです。


仏になるとは「真実の真理」を知ることです。

わからないから、私たちは日々、仏さまを通じて聞いていくのです。聞きながら手本にしながら、我が身にいただきながら生きていくのです。また、聞いても忘れては意味がありません。

飛行機に乗っていても、「あれ?私たちどこへ行くんだっけ」じゃ安心することはできませんからね。ま、そんな人はいないかも知れませんが。


また、生きていく道は平坦ではありません。山あり谷ありさまざまな困難がありトラブルも多々あります。幼少時は親が側で見ていてくれますあし支えてもいただけます。

それでもすべての親がそうしてくれるとは決まっていません。生まれてすぐ別れることもあります。

私たちはお互いに前世の過去を今に引きづっていると言われます。だからそれぞれの境涯が違うのです。きょうだいであってもそうです。

そうだから、比較しても僻んでも意味が無いのです。つまり、前世での私の行いが(記憶には無いが)今の私を象徴しているとも言われます。


それを聞くと、「じゃあ生きていても仕方ないじゃないですか」と悲観される方はあります。

根本が違うのです。だから仏法を聞く必要があるのです。

私が私に生まれてよかったと思えるようになり、他者を喜んであげられる私になることが大切なことだと知る、これが私がしあわせになる一歩です。


それを比較しても意味はありません。

それぞれの役目があるのですから。

「縁」によってなる世界に私たちは共に生きています。

だから、結婚する人もあります。結婚して子に恵まれる人もあり、そうでない人もいます。

子に恵まれても順調に育つこともあり、なにかによって我が子を先に見送らねばならない人もあります。

また独身でいる人もあり、結婚してもなにかによって別れていかねばならない人もあります。(私がそれです)


私にとって一番良い生き方を選ぶこともあり、そうではないこともあり、人生とはさまざまな生き方があるのですね。それは世間一般は、無いように願うのですが、願っても思うようにはならないのが、「迷い」の世界を生きている証拠なのです。


つまり、どうして私は生きているのか、何をするために生きているのかという【目的】がわからないから、不安になったり、悲観したり、絶望になるのでしょう。

その【目的】を知るために私たちは生まれてきたのです。


※生きる目的なしに生きることばかり考えている人、常に他者と比較してばかりの人は、どんな生き方をしても最後は必ず死なねばならないから死ぬために生きていることになります。


この目的を知らないといつも満たされません。

その上、一番自分が正しい、あいつが悪い、皆がわかってくれないのが悪いんだと相手を責め、自分の殻に閉じこもってしまうのです。

だから、私が生まれてきた意味、目的がどんどんわからなくなってしまいます。


あらゆるものを手に入れた人でも、人生の目的を知らない人は晩年になると幸せを感じられずに、不安ばかりになってしまう例があります。


皆さまもご存知の徳川家康さん、


人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが

ごとし 徳川家康 遺訓


あれだけの人でありながら、重荷をおろせなかったのですね。

※重荷とは、苦しみのこと。


天下をとっても、征夷大将軍になっても、たくさんの奥さんがいて、たくさんの子に恵まれても、死ぬまで苦しみからは逃れらるなかったということです。

「遠き道を行くがごとし」


結局、満足のいく人生ではなかったと言われたのです。

ということは、天下統一も幕府を開いたことも、徳川家康さんの生きる目的ではなかったということです。


【生きがいを生きる意味と間違えてしまうと、死ぬまで苦しみ続けねばならない】


そこで浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、生きる目的と手段の違いがわからないから、生きる意味が分からないのだと、


【真•仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。】『教行信証』真仏土巻


※「真」は、目的

※「仮」は、手段

※「如来広大の恩徳を 」は、本当の生きる目的を果たした人間に生まれてよかったという喜びの身にしていただいたご恩を言います。


つまり、私たちが生まれてきた意味、生きていく意味を知るためには、何が必要で何を聞かねばならないのかを尋ねていく世界は、南無阿弥陀仏のお心をお伝えくだされた浄土真宗、親鸞聖人の教えであるということです。

もちろん、全部とは申しません。

さまざまな人生があります。

違う生き方の中で見出していける人もあるでしょう。そういう人はその道を信じて歩まれたらいいのです。


しかし、そうではない、生きる意味を見いだせない方は、どうか浄土真宗のみ教えを聞いて、南無阿弥陀仏を常に我が身にいただきながら「今」を生きて欲しいのです。

そうすれば必ず、生きる意味がわかります。

私が私で良かったと思えるようになるはずです。


大切にしましょう。

私もそうして生きています。

今日は、わざわざ超法寺のホームページを閲覧して通夜葬儀をご依頼くだされた方にご縁をいただきます。どのような方にお遇いできるか楽しみです。有り難き、南無阿弥陀仏

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