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執筆者の写真超法寺の住職

正しい宗教ってなぁに

更新日:2023年9月11日

皆さま、こんばんは。

週末はいかがでしたか。

よいお休みになりましたでしょうか。

台風の影響で暑かったでしょうか。

もう少しの辛抱ですよ。

暑さ寒さも彼岸までですからね。

今はラグビーワールドカップVSチリです。

前半は21-7でリードして終えました。

頑張れニッポン。


さて今日の写経会は三人が参加してくださいました。暑い中ご参加いただき有難うございました。今日は「正信偈」、「讃仏偈」をおのおののペースで書きました。超法寺では写経会を

毎月第2日曜日14時から開催しています。

予約は要りませんので手ぶらでお越しください。


この度は、人間が生きていくためにどうして宗教が必要なのかをご紹介します。

宗教とは読んで字のごとく、「教えを宗にする」つまり、私たち浄土真宗のみ教えを生活のど真ん中にして生きていくのですね。

何か宗教というと嫌なイメージがありましょうが、教えをこちらへもってくるから「恐れ」によって「献金」を強いられたりして辛いのですが、浄土真宗はそのような宗教ではありません。昔から「聞く宗教」と言います。


私が仏法聴聞をするためのお寺、つまり聞法をする道場をお寺と言っています。

何を聞くかは先程申しましたが、「往生浄土の道」を聞くのですよ。

そんな簡単に天国へは行かれません。

そして死んで「お骨」になるのではありません。仏法聴聞を怠るからすぐ忘れるのです。

「千の風」流行りましたでしょ。

すぐ忘れたらダメです。だから忘れたら改めて聞いていくのです。


さて私たちの人生は諸行無常ですから待ったナシです。問題があれば必死になって解決することが肝心です。

経典には「黒白二鼠」のたとえがあります。


ある旅人が荒野を歩いて、突然猛獣に襲われました。追い詰められた旅人は、空井戸を見つけて、その井戸の口から垂れている藤蔓につかまって下へ降りていきます。

ふと井戸の底を見ると恐ろしい毒龍が大きな口を開けて待っているのに気づきます。

上を見上げると猛獣が、井戸の端につかまって、激しく吼えています。

もう藤蔓一本がギリギリの頼みの綱です。

そこに白と黒の鼠二匹が出てきて代わる代わる井戸の口のところでこの蔓ね根を噛み始めました。

旅人は、恐怖のあまりかまれては大変だと、しきりにこの蔓をゆさぶりました。

揺れるにつれて、根元にあった蜂の巣より、数滴の蜂蜜がこぼれて、旅人の口に入りました。

旅人は、身に迫った危険も忘れて、この口の中の甘さに酔い、さらにこぼれてくる蜜を求めてもがき始めました。


この経典のたとえは、我々の人生をわかりやすく表現し、しかも実に厳しい内容になっています。追い詰められながら、確実に昼夜の生活の中で(黒白の鼠によって蔓がかじられるというたとえ)死を迎える不安な存在であることを巧みに表現しています。

しかも、蜂蜜に酔いしれている姿は、目先の享楽に酔い、危険を忘れている我々の姿を的確に必要しているようですね。


正しい宗教を求める心は、正しく自分を把握する心があって、よくそれが熟してきます。

本当の私自身の姿に気づくものは、真の宗教を求めざるをえないのです。

人間の悲しさは宗教の真偽がわからないこと。

人間の欲は快楽によって楽な方へ流されます。

真の教えに垢を付けると途端に「偽」となります。

真の教えは私たちを「恐怖」にはなりません。

「地獄に堕ちる私を落させないはたらき」こそが真の教えであります。

阿弥陀如来の願いが込められてあります。

南無阿弥陀仏と、何も足りないものはありませんよ。

死ぬまで「煩悩から離れられない私」のために仕上げられたのですから、まかせたらいいのです。

喩えを他人事と聞いていたらいつまでもわからないままです。

今回は、「旅人」を私自身だともう一度読んで見てください。きっと何かに気づくのではないかな。

私がどうにかしてどうにかなる代物ではないのです。「地獄は私が作り私が行くのです」


いかがでしたか。

16日は、久喜市の西願寺さまの「秋季彼岸法要」の布教へ参らせていただきます。

13時~です。お近くの方には是非お参りください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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