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どんなにつらくても

皆さま、こんにちは。今日は雨ですね。もうすぐ回復してくだされればとお待ちしておりますがまだ降っています。気持ちも暗くなってしまうようですが生きる喜びをどうやって持つのでしょうか。皆さまはどうでしょうか。

ただ念仏もうさるべしと言いますが、お念仏を申してもそういう気持ちになるのは難しいような気がします。困った時の神頼みか、今日の運勢によるべきなのでしょうか。浄土真宗ではこういう行為は勧めていません。

人生を生きるのは決して平坦な道のりではありません。むしろ一瞬一瞬常に移り変わっていきますし、気持ちも良かったり悪かったりであります。

この二十一世紀になっても未だに呪いのような物が身の回りにはあります。

これは親鸞聖人のおられた時分からもありました。

有名な話であの弁円さんの話があります。


この弁円さんは、祈祷や占いによって苦しむ人たちの相談に乗ったり、指導をされていた山伏でした。彼も彼が信じる道(祈祷や占い)で、「衆生利益」を願っておられました。しかし親鸞聖人は祈祷や占いは、苦しみを本当に解決する道ではなく「南無阿弥陀仏」を称えることのみが苦しみ悩みを本当に超えていく道だと説いておられました。このように私たちが生きていくためには思いがけないことにも出会っていかねばなりません。ほぼほぼ自分の思ったようには生きてはいけません。

そうなると私たちは何かに頼っていこうとします。

世間では家内安全には神社でお札をもらい、交通安全にはこれもお守り(葬儀社が霊柩車に貼っているのには驚きます)を。本当に効果があるのでしょうか。あればきっと自動車ディーラーで扱っていたりするのではないでしょうか。

しかし、人間が自動車を運転している限り事故からは逃れられませんよね。

毎日どこかで事故が起こり多くの人がケガをして、なくなっているのが現実です。

人間は、うまくいっているときはいいのですがそうでなくなると、これまた自分の都合で「神も仏もあるものか」と愚痴が出るもの。これが煩悩具足の凡夫たる生き方です。


誰にもこの先の人生なんかわからないというのに、いつも先のこと、未来のことを心配した言動をしようとします、ナンセンスですよ。

いいですか、この世は、「明日ありとおもうこころのあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」なのですよ。なったらなったときに考えればいいじゃないのよ。

私はそう思う。だって阿弥陀さまの仰せのままに生きるのが念仏者の生き方ではないのでしょうか。それなのに疑っているようなものの見方、私は好きではありません。


ごめんなさい。話が逸れてしまいました。

私たちがいけないのは自分を見失ったり、自分を直視しないことこそ一番問題なのです。自分の「いのち」のあり方をしっかり見つめて、いい時も悪い時も変わることなく、私たちの「いのち」を包んでくださるものに支えられて生きていくことによって、本当の意味で苦しみを乗り越えていくことができるのです。


私たちの「いのち」の本当のあり方を知らせ、私たちの「いのち」を、どんなときでも包んでくださるのが「南無阿弥陀仏」の喚び声なのです。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来が私たちが受け取りやすい形、声となって常に届いていてくださるおはたらきであります。この声が聞こえているということは阿弥陀さまが私のところへ来て包み込んでいてくださることです。

【いつでもあなたを見捨てることのない阿弥陀が一緒です】の声です。

ですから親鸞聖人は自分一人では、どうしても乗り越えることができないような大きな苦しみ悩みを持つ人に、「南無阿弥陀仏」を勧め、祈祷や占いを否定されたのです。

浄土真宗のご縁でありながら、お札やお守りを頼っている人はこの阿弥陀さまを疑っている行為ですからお救いにはお遇いできません。自力では救われないのです。


弁円さんにすれば自分を否定する親鸞聖人が、いい加減なやつと思われたのでしょう。それに苦しみ悩みを「南無阿弥陀仏」一つで超えられるなどと思いもされないことだと思ったのでしょう。

どちらにしても親鸞のようなものを生かしてはおけないと思い詰めた弁円さんは、親鸞さまを殺そうと稲田の草庵に押しかけました。その様子が『御伝鈔』に、

 上人(親鸞さま)左右(途惑うこと)なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱(つもりにつもった思い)を述すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿の衣(山伏が正先達の位になって着る柿渋で染めた無数の衣)をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐(平素からのねがい)をとげき。不思議なりしとこなり。すなわち明法房これなり。上人(親鸞さま)これをつけたまひき


と記されています。

自分を殺そうとやってきた弁円さんに戸惑うことなく出られた親鸞さまはどのようなお姿であったかは諸説あると思います。きっと度肝を向くほどの形相で見たものを震え上がらせるような厳しい姿ではなかったかと思うのです。

親鸞さまの「衆生利益」を願う者として、自身の命をかけて、みんなの幸せを願いつつ、だからこそ、曖昧なことを許さない厳しいものであったと思うのです。


一人で生きていくことは困難です。

それでも、そういう人生を歩んでいる方は私を含めて多くおられることでしょう。

そういった人はどうすればいいのでしょうか。

ここで「南無阿弥陀仏」であります。阿弥陀さまを仰いで生きていくと、あみだだまの大きな慈悲のはたらきによって、一人ではない私に気づかされていきます。

お寺ってそんなところですよ。一人じゃない世界。温もりある人生、それが今、私が目指している超法寺の世界であります。


さて雨が止んだようです。しんどいですが一人じゃないから、荷物を今日も運んできます。あはは。南無阿弥陀仏

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