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執筆者の写真超法寺の住職

どうして称えるのでしょうか

ナンマンダブツとお念仏を申すことは、阿弥陀如来の救いの事実がその人の上に顕れている相(すがた)なのです。

ナンマンダブツを称えることを救いの条件や手段にするものではありません。


「問うて曰く、称名念仏を申す人は、みな往生すべしや。

答えて曰く、他力のお念仏はみな往生すべし、自力の念仏はまったく往生すべからず。

問うて曰く、その他力の様いかむ。

答えて曰く、ただひとすじに、わが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。たとへば大きな石を舟に入れつれば、時のほどに向いの岸にとづくがごとし。またくこれは石の力にはあらず、舟の力なり。それがやうに、われらが力にてはなし、阿弥陀ほとけの御ちから也。

これすなわち他力なり。」〈法然聖人〉


他力の念仏とは、他力が念仏であり、念仏が他力ということです。

阿弥陀如来の本願力(凡夫を浄土に生まれさせ仏にする)である他力は、南無阿弥陀仏という念仏に成就され凡夫に与えられる。

この南無阿弥陀仏の力で往生が定まる。

口にナンマンダブツ、ナンマンダブツとお念仏を申すまんまが、阿弥陀仏の本願力の舟に乗せられているのです。


「あなたは【そのまま】でいいよ。

あるがままでいい。

今のそのままでいいよと受け止めてくれる存在があれば、人は今を生きることができる。

そのように扱われていると、ああ自分のあるがままでいいのだと思えるようになり、心の芯を作ることができるのです。そのような安心と安定の感情をもとに今日を生きる力を得、明日を変革していける。」〈国立保険医療科学院 三砂ちづる先生〉


ご恩報謝の念仏とこころうべきなり。


嬉しいと人は口から「有難う」と声に出して感謝するのです。その有難うの喜びが我が心にあれば自然と声となり現れてきます。


今日も一日を生かされて生きました。

明日はどうでしょうか。

おやすみなさい。南無阿弥陀仏

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