皆さま、こんばんは。
いやぁ、寒いですね。被災地石川県は零下の朝だったそうですね。お辛いことでしょうね。
お見舞い申し上げます。
この度は、私たちが生きる道は人間としての限界を知ること。
お経では、【如是我聞】、【我聞如是】(かくのごとく我聞けり。我、かくのごとく聞けり)から始まり、つまり「言葉」(教説)と聞くことから始まるのです。
金子大栄師は、
「宗教とは、生涯を尽くしてもなお、くゆることのない、たった一つの言葉とのであいである。」と申されました。
※金子大栄師にとっての「たった一つの言葉」とは、南無阿弥陀仏でありました。
南無阿弥陀仏とは、人間の救いを成就した阿弥陀仏そのものの名のりであり、智慧と慈悲の結実した言葉でもありました。
この究極の言葉【南無阿弥陀仏】を私に届けるために、先人の方々は大変な努力をされました。伝道とは、仏法の価値観、人生観などを明らかにして人々と共に生きるということでなければならないと考えます。
某宗教団体がCMで、「言葉と生きていく」という素敵な表現をされています。
ただ言葉が何かであるかはとても大切なことではないかと思います。
何でもいいことではありません。
超法寺では掲示板伝道を行っています。
またホームページ、ブログでもことある事、仏語で皆さまにお伝えしております。
ひとつの言葉でケンカして、
ひとつの言葉で仲なおり
ひとつの言葉でそれぞれに、
ひとつのこころをもっている
あるお寺で拝見しました。
なかなか響きました。
言葉ひとつひとつひとつには、心、内実があります。この内実こそが尊い力を発揮するのです。
今、宗教が仏教が厳しく問われています。
某新興宗教の出家信者は、「寺はひとつの風景でしかすぎなかった」と言われました。
どうでしょうか。浄土真宗のお寺は少なくとも風景で済ませたら悲しいのです。
浄土真宗の本堂は聞法道場と言いまして、仏法を聞かせていただく場所であります。
それなのに風景でしかなかったという言葉は、愕然としました。
この言葉にも真摯に耳を傾けてより一層の仏法伝道をしていかねばならないのだと思いました。
「二人して一つの道を往くな」
というお釈迦さまの言葉は至言ではないでしょうか。さまざま声(批判)を受け止めながら、伝道活動に生かしていかねばならないのでしょう。
「世の中に、関係のないものは、一人もいない」
既にお寺参りをすることが出来ている方は、どうしてお寺へ参るべきなのかを、まだお参りしたことのない方へいかにして勧めていくべきなのでしょうか。
自分だけ•••それではあまりに勿体ない。
良いことは進んで人に勧めていくことも、伝道活動ではないかと思うのです。
「自らを灯とし、自らをよりどころとせよ」
お釈迦さまの言葉です。
意味は、「食事をする時、寿司も食べたい、蕎麦も食べたい、どれにしようか、と迷っている時、私は一体何を食べたらいいでしょうか、と人に聞く人がいるだろうか•••」
そのようなことをら仰っておられます。
よ〜く考えよう。
お釈迦さまは伝道について高らかに宣言されました。
「修行者たちよ、私は人間のあらゆる束縛から解放された。汝らもまた、あらゆる束縛から解放された。修行者たちよ、伝道の旅に出るがよい。多くの人々の利益と幸福のために。世をいつくしむために。」『雑阿含経』
言葉は頭で理解していくものではありません。身体で読まなければなりません。
「三帰依文」にも、「大道を体解して、無上意を発さん」とあります。
言葉を体解した時、初めて私のものとなります。
「私は身体で読もう。ことばを読むことになんの意義があろうか。治療法を読むだけならば、病める人にとってなんの役にたとうか。」『菩提行経』
仏法は、この身を通さないと観念になります。
単なる言葉となってしまいます。
言葉にひそむ、「ことば」のいのちに触れ、出会う時、その言葉は、「私」のものとなるのです。私を支えるものとなります。
言葉との出会いは、私自身との出会いではないでしょうか。言葉によって自己があきらかになり、自己が問われ、自己が養われ育てられるのではないかと私は思います。
言葉に育てられます。生と死の迷いと、苦悩を乗り越えさせるようなはたらきを持っています。
「生に迷い、死をおそれつつ生きる私どもを導いて、その生に意義あらしめ、死に光あらしめるものは、真実に目覚めたもうた仏祖のみことばであります」『浄土真宗聖典』大谷光真前門主
一度読んだらそれでいいものではありません。
もちろん仏法聴聞も同じです。聞いて聞いていくのです。その繰り返しの中でも少しずつ、この身に残るものがまた少しずつ、私の身心に宿っていくのです。
人間は「忘却」していくものですから、頭で聞くだけでは物足りないのだと思います。
お念仏も身心で受け取ったならば、仮に意識がなくても我が口から声となり出てくださいます。あるご門徒さまが身をもって私に教えてくださいました。
「老患の、おさえた声の念仏が、かすかに聞こゆ消灯時間」
南無阿弥陀仏
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