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それでも私は生きる

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

皆さまは何を頼りに生きておられますか?

辛いこと、思い通りにならないこと、病、社会など様々な悩みを抱えていることでしょう。

そんな中でも、家族が、我が子が、親が生きる支えとなっているのでしょうか。


私はおかげさまで浄土真宗のみ教えに遇わせていただけました。必要の無い人はいない。気づかないあなたを私はずっとずっとず〜っと気にしていますよ。あなたがしあわせにならねば阿弥陀は一人ではしあわせにはなりません、仏にはなりませんと、生きる意味を見出すことのできない私たちに【南無阿弥陀仏】と、喚び続けとくださいます。


煩悩を抱えて生きていくとは常に苦悩から離れられずに、また自分の殻からも出ることが容易ではないということです。これは私の力では克服できる問題ではなかったのです。

大乗仏教の経典には、「インドラの網」という

有名な譬喩(ひゆ)が示されています。

インドラとは、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られている古代インドの神さまです。その宮殿の天井を飾っている網の結び目の一つ一つには宝珠(ほうじゅ)が結わえられてあり、それがちょうど合わせ鏡のように互いを映し出していて、どれか一つの宝珠を取り上げられば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。

孤立し、ひとりぼっちで生きているかのように見えるこの「私」ですが実際には、様々な他者とわかちがたく結びつき、関わり会いながら生きているのです。

それこそがこの世の中を生きている真実の在り方であるというのです。


【生きる意味】を見失いかけたとき、「あなたが必要だ」、「あなたには生きてほしい」と他者から望まれる「呼びかけ」があればこそ、そのような関係性を再発見することができるのではないでしょうか。


宗祖親鸞聖人は、『浄土和讃』に、

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の

念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば

阿弥陀となづけたてまつる


と、仰っています。

あらゆる世界のいのちあるものに対して、光明のなかにおさめとって捨てることがない阿弥陀如来、その「よび声」は【南無阿弥陀仏】の声となって今、悩み苦しみ、自ら命を絶とうとしている私の元に届けられています。

様々な問題を抱え、悩み、抱えきれず、絶望となった時にだけ人間は自○するのだそうです。


ということは、絶望にならねばいいということであります。

皆さまは【大丈夫】という漢字は知っていますか?この3文字にはそれぞれ共通の漢字が入っています。何だと思いますか?


【人】という字ですね。

どういうことかと言えば、もし絶望に至った時に、「私がこのまま○んで、何人が悲しむだろうか、何人が泣いてくれるだろうか」と考えて、もし3人以上居たら、まだ大丈夫、頑張れるという意味なんだそうです。

つまり【生きていける】のです。


私をこの世に産み育ててくれた、お父さんお母さん、これで2人。もう1人は私に本当のしあわせになる道を知らしめ願い続けていてくださる阿弥陀さま、これで3人になりますよ。

だから生きていくのです。

生きていけばわかる、何故生まれてきたのか、なぜ生きているのかを。それをわかるまでは私は生きていかねばならないのです。


これが生まれてきた責任なのだから。

責任を放棄して自○したって楽にはなりませんよ。却って苦しみが続いていくのだから。

死ねば楽になれる、なんてまやかしですよ。

生きて生きて生き抜き、南無阿弥陀仏を我が身にいただいて生きていくのです。

人間がしあわせになれる道はこれしかありません。それを知るために仏教の教え、浄土真宗のみ教えを我が身にいただいていく【聴聞】のです。


どんなに苦しくても辛くても、南無阿弥陀仏をいただかずに人生を終えてはなりません。

先程の『浄土和讃』を何度も何度も読んでください。「よし、しんどいけど生きてみよう」、そう思えるまで読んでください。

少なからず私もあなたには生きてもらいたいと願っている1人だから。


南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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