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そもそも葬儀って何?

皆さま、こんにちは。

今日も暖かなお天気に恵まれています。

もう明日は週末ですか、いやはや早いわ。

あっという間に過ぎていきます。


大切な人がお亡くなりになり、悲しみに暮れていても時間だけは止まることなく確実に過ぎていきます。ということは、私の往生への時間も刻々と過ぎているのです。

儀式として昨今では一日葬、火葬式が家族葬として営まれ、私も縁をいただき参らせていただく中で感じることは、ゆっくり故人との別れを整理しながら感じることが難しいように思います。


ただ、通夜を行えば生前、故人がどのような人間関係を結んでいたのかを目の当たりにする場面はあるのです。平日ですとやはり仕事関係はお通夜にお参りに来られます。

一日葬や火葬式では身内以外が来てくださるタイミングは余程でないと無いように感じます。

お花や弔電で知ることもありましょうが、やはり実際にお姿、お言葉を交わす中にこそ故人の公的な人柄を知る大切な時間になると思うのです。

親としてではなく、仕事をしていた父親のことは仕事仲間を通じてでしかわからないことが多いですし、亡き人が人生をかけて一体私に何を問いかけ、何を残してくれたのかを知ることもお通夜の大切な時間ではないかと私は考えます。

私自身、両親を見送る中で一番強く感じたことです。確かに弔問が多ければ喪主として遺族として気を遣ったり、やることが多くて大変なのは十分わかった中で、私の父もお参りに来られたご住職、僧侶、親戚、門信徒、仕事関係等のさまざまな姿を見る機会がありました。

私がずっと勝手に思っていた偏見や理想は悲しみの場でこそ本物を知る機会でありました。

親族であろうと涙してくれない、義理でありましょうと、「本当にお世話になった方でしたよ。」と涙を流してくれた方、本当にありがとうございました。

これからも私は大切にしたいと思う。

父が見せてくれた表も裏も間近でみさせていただき、いかに私が偏見で人を見ていたのかを思い知らされたのです。


それだけでもお通夜を行う意義がよくわかりました。人の優しさ、温かさもお通夜は遺族として大変有意義な場であると私は痛感しました。


超法寺のご縁の方が、自分の時は住職に来てもらうからね、とおっしゃってくださいます。

とても光栄ですね。

ただ友の会に入っていると、場合によっては葬儀社指定のお坊さんしか頼めないこともあるようなので事前に確認していただきと思います。


私の葬儀は超法寺の住職に勤めていただく!

それを葬儀社に頼むときの最優先事項にしていただけたら嬉しいですね。

また、亡くなられる前にこそお会いさせていただける、そんな住職になりたいと私はずっと思っています。

約40年お坊さんをしていますが、そのような場面にあわせていただけたのは一件だけです。


今でも忘れません。そして今もご縁を結ばせていただけています。

昨今は【枕経】に呼ばれることも少なくなりました。

昨年、久しぶりに狭山市の方にお願いされました。もちろん葬儀社経由でしたが、そういうこともできることを知っていただきたいですね。


【枕経】とは、浄土真宗では昔から勤められてきました。亡くなる前にお寺さんに来ていただいて枕元で阿弥陀さまへ御礼のお経「正信偈」を一緒にあげます。

その途中で仮にお亡くなりになられても最後まで止めずに読むのだそうです。


南無阿弥陀仏を称えられた方は阿弥陀さまの大慈悲のおはたらきにより、そのまま浄土に往生させていただくのです。

これこそが浄土真宗の門徒のあるべき姿だと、私は先人たちから教えられました。


実際には泣かずにいられないし、故人に縋りつくこともあるのでしょうが、それでも南無阿弥陀仏に遇わせていただけた慶びを家族、縁者が共に共有していく。故人を仏さまと拝ませていただきたくのが浄土真宗であります。

素晴らしい世界観ではないでしょうか。


ただの儀式ではないのです。

私たち皆、望まれて喜ばれて生まれてきたはずです。そうならば、やはり死に際しても喜んであげることは必要ではないでしょうか。

「サヨナラのない世界」がある。


また【遇える】世界、【倶会一処】こそ浄土真宗の宗風です。

「今までお疲れ様でした。今まで有難う。またお会いしましょうね。南無阿弥陀仏」


これが言えなければホンマもんじゃないよ。


◎葬儀というものは、本来自らの宗教心を形にする最も典型的なものです。

特にどのように死を受け止めていたかということが、そこに現れてきます。

またそれは○○宗を信仰しているから、その教えを表した形を取るということだけではなく、もっと広い意味で、自分が何を依り処に生きてきたのか、どんな思想をもって生きてきたかが、形に表れてくるものです。


もちろん、現在の葬儀の大部分は、その土地土地の習俗、習慣の反映という面が大きく、個人の意思が直接反映しているとはとても言えない面が多々あります。

一見、自由奔放な生涯を送られたかに見える人でも、葬儀は従来通りという場合は珍しくありません。このことは、いかに私たちが習俗や慣習の中に深く縛られて生きているかを示していると言えましょう。


あるご門徒は、意識がなくなる前に自分の葬儀のことについて細かく指示をしてから亡くなられた方がありました。


さまざまなことを知る機会は身近にあるのですね。ただの儀式にしないで心温まる大切な方との別れ、また遇える道を知る機会としていただきたいと思います。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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