ソフトバンクへFA移籍した山川穂高の人的補償で昨日から大騒ぎです。和田毅投手の報道から何故か甲斐野投手になったのはただの誤報だったのか、それとも•••。
一部では、元中日の岩瀬投手が出されるならば引退しますとゴネて破談となった話を出して、和田投手も、西武に行くなら引退しますと人的補償を拒否したのではないかと言われます。
ま、レジェンドで昨年は8勝もした投手ですから、それだけのプライドもあったのでしょう。
これがベテランを獲得する際の裏技みたいです。結果的に豪速球でキャラも明るい甲斐野投手がライオンズに来て活躍してくれたら増田達至投手の負担も減るので大歓迎です。
あの平良投手より速いんですからね。
楽しみ。
山川穂高で甲斐野投手が釣れました。
さて、大震災後、今頃になってS厄除けのCMが流れました。こうなってもやはりCM流すのですね。厄除けなんかできないのにね。
人間には真実はありません。真実の世界で祈願できない者の願いを真実の存在が叶えてくれはしないんだと、どうして気づけないのだろうか。それは真実に背を向けているからに他なりません。
だから浄土真宗では、このような【祈る】ということは認めません。
どの宗教でも認めているのに何故、浄土真宗だけはいけないと言うのでしょうか。
一言で言えば、私の願いや望みは真実ではないからです。
親鸞聖人ほど【真実】に生きることを明らかにされた方はおられないでしょう。
それ故に、浄土真宗の教えに生きるということは、そのまま真実なるものの中に生かされることであると言えるのです。
[数学者 岡潔博士]の仏教入門の言葉と言われる「真実分別智」、「妄智分別智」、「邪智分別智」という言葉によってこの意味を明らかにします。
世間一般で言われるものは、「邪智世間智」であります。「邪智」ということは、人間の自己中心の欲望の眼鏡をかけて、すべてのものを測定することです。
我々の日常的自己は、この眼鏡をはずすと全く失明してしまうのであります。
それは、あの人は良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかということ、正しいとか、間違っているということ、すべてこの眼鏡によって測定しているのであります。
自分に気に入ったものは好きであり、自分に気に入らないものは嫌いであります。
いかに大嫌いと思っていた人でも、自分の都合が良くなると大好きになるものであります。
骨まで愛して止まない愛人であっても、他にもう一人の男を(女)つくると、骨まで嫌いになるものです。
隣の主人が二号さん(愛人)をこしらえても自分の妻が夜も眠られないという人は誰もいないと思います。また自分の主人が二号さんでもこしらえると、愛は一瞬で憎しみに変わり、瞋恚(しんに)の炎が燃え上がるのです。
この根底には常に自己中心の眼鏡をかけているのです。日常的自己の上ですべて、善悪正邪、是非の判断をしているのを【正邪】と言われます。
この眼鏡を取り除くのは至難であります。
つまりこの眼鏡によって【煩悩】が生ずるのです。煩悩から離れられない私たちが、私たちの欲望を叶えるために神さまへ祈願するということは、神さまを冒涜する行為であるといわねばなりません。
このような意味において、本当の神さまということはどういう方かということを知らしめたのが浄土真宗であります。
浄土真宗では、『御文章』に述べられているように、神さまを粗略にしてはいけないと戒められ、感謝の念によって拝するのであります。
次に「妄智分別智」とは、人間がもつ理性分別によるものであります。
ギリシャのアリストテレスは植物と動物の相違は「感情を持っているか否か」にあると言われています。また動物と人間の異なるところは、「理性を持っているか否か」にあると言われています。正しく人間と動物は、この「理性」によって相違するのであります。
この理性によって善悪正邪有無、美醜等の分別が生まれ、これに執着して私たち人間は迷い続けなければならないのであります。
正しいこと、善なることは誰も否定するものはありませんが、正しいこと、善なるものに固辞すると、逆に汝をたたく武器となるのであります。私たち人間の争いは個人と個人の争いをはじめ、国と国の戦争に至るまで、すべて自らの側にたち、自分は正しい、善である。そして汝の側が邪悪であるという場において正起するのであります。
これによって殺し合い、さまざまな事件が生まれるのであります。【善悪に固辞する】
例えば、沖縄での基地反対運動が度々報道されますが、すべてが沖縄の人ではありません。半数は実は中国人だったりするのです。事実を知らないからすべてがそうなんだという間違った意見となるのです。先の戦争でも、「東洋平和」のためならばと戦ったのであります。
戦後も「戦う」という言葉は度々使われます。
「戦う」という言葉は使わないようにされたら世の中はもっと平和になるのかも知れませんね。【仏教では分別理性を迷の原因】と言われます。
仏教でいう真実ということは「迷」の世界に属するものは言わないのであります。
道元禅師は、『正法眼蔵』に、
自己をはこびて万法を修証するは迷なり
と言われています。
次に真智無分別の世界があります。
無分別ということは、是非善悪の分別を否定することではありません。分別を否定すると人間が人間喪失ということになります。
無分別ということは是非善悪の分別をこえた世界というのであります。
この世界には是非善悪を否定するものではありません。したがって化学や道徳を否定するものでもありません。【包摂】するものと言います。
西洋の宗教のように、信仰と知性の二元性に立つものとはその立場を異にしています。
このような境地が人間にして可能かどうかの問いを持つでしょうか。
徳川時代に駿河に移住していた白隠禅師の話をご紹介します。
白隠禅師のお寺の前に豆腐屋があり、そこに可愛い一人娘がいたそうです。娘が村の若い人と関係して妊娠したと言われる。いよいよ発表の時期がせまると、彼女は両親に相手を白隠禅師であると言ったのです。
この時、白隠禅師は既に70歳を超えていたと言われます。両親は大層驚き、子どもが生まれると、早速禅師のお寺に持っていったと言われます。すると禅師は、「ウン、そうか」と言って受け取り、三年間子供を預かり、禅師自ら乳母を探して乳を飲ませ、おむつの面倒も自ら行ったと言われます。
三年後、禅師の悪口雑言を聞くと自らの良心に耐えかねた娘は遂に本当のことを打ち明けたと言われるのです。
両親はまた驚いて早速禅師のお寺に行き、子供をもらいに行き、禅師はまた「ウン、そう」と言って渡したと言われるのです。
この白隠禅師には是非善悪はしり尽くしているのです。しかも是非善悪をこえた場に生きておられるのです。禅師の行動は世界の誰が聞いてもわからないものはないし、頭を下げざるを得ない高い世界であります。
このような場は分別理性をこえた世界であり、それは逆にあらゆる分別を包摂する高次元の世界といわれます。
真智無分別とは、正しくこのような世界を言うのであります。
今、他力本願の他力とは正しくこのような真智無分別のさとりの世界から逆に分別理性を場とする相対の世界へのはたらきかけを言うのであります。そこには本当の真実に生かされる答えを見出すことができるのであります。
難しいお話でしたね。
私たち人間は死ぬまで煩悩から離れられない凡夫でありますから真実の世界がわからずに、自分の中にあるものが真実であると間違ったものの見方をして、それがあたかも真実だと誤認して生きています。だからでしょうか、真実なる神仏に背を向け、神仏とはお願いすれば聞いてくれると、この二十一世紀になっても勘違いして生きているのです。悲しいですね。
南無阿弥陀仏、(-∧-)合掌・・・
『他力ということ』参照
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