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執筆者の写真超法寺の住職

ぜ〜んぶ、お見通し

皆さま、こんばんは。

今日は都内、立川市で葬儀をお勤めいたしました。新たなお出遇いをさせていただきました。


私ごと、昨年往生した両親との人間界での別れの経験が活きていることを実感しています。


父が人生最後にお取次してくださった言葉は『歎異抄』の一節でした。

【名残りおしく思えども、娑婆の縁尽きて力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり】


意味は、この世との別れをどんなに名残りおしく思っても、その縁が尽き、ちからなくして人生の終わり(死)をむかえるとき、浄土には参るのです。


【浄土】は、人が死んでから行くところと思われがちですが、そうではありません。


金子大栄師によれば、【浄土】とは、〈魂の故郷〉であり、〈生の依るところ〉であるといわれます。

つまり、浄土とは死後の世界の話ではなく、むしろ、私たちの人生の究極的な依りどころであり、人生の意味を明らかにするものなのです。


阿弥陀さまがお誓いくだされた【ご本願】は、私たちの持つすべての疑念について、初めからお見通しであります。

どんなにお念仏を聞いても、称えられない。

どんなに促されても南無阿弥陀仏が称えられない。

また、どんなに南無阿弥陀仏を称えても、心から喜べないし、一日も早く浄土へ参りたいと言う心も起こらない。

これもすべて私が持つ【煩悩】、

凡夫ゆえの悩みであります。

阿弥陀さまがお立てくだされた願いはまさに【凡夫救済】

この他力の悲願は、我らのためにあることを忘れてはなりません。

往生を喜べない自分の心を欺くよりも、それでも見捨てずにお救いくださる阿弥陀さまの悲願を頼もしく思うべきであります。


ただ念仏すべしは、そこまでしてもお念仏を称えられない、自力心で称えようとする浅はかな私すらも阿弥陀さまはお見通ししてくださいます。


称えてみれば、おのずと知らされるはたらき•••••すべて阿弥陀さまの一人ばたらきであります。


自力だと気づいたときに既に阿弥陀さまのお救いに預かっていた私だったと気づくのです。


今まで聞くことすらなかった南無阿弥陀仏に今遇えたということは、ようやく私に届いたということなのでしょう。

悲しいご縁ならば、私は故人の願いとして、「聞いてくれ。聞いといてくれよ。また必ず遇えるから。辛くてもお念仏を聞く日暮しを送っておくれよ。」との、【親の喚び声】ではないのでしょう。

わからない私に、親が先手を打ってはたらいていてくださっているのですね。


だからこそ、亡き人を死者として弔うのではなく、私を阿弥陀さまの他力の道に誘ってくださる故人を還相(げんそう)の仏さまといただいていただきたいのです。

それは、俗名のままではなく法名をいただいてほしいと私は思うのであります。


超法寺は、おざなりの法名はいただきません。

きちんと意味を明らかにした仏の名を授与させていただくように努めています。


お寺さん、特に住職には大切な役目があると私は思うのであります。超法寺のモットーです。


是非、また遇える世界を知ってください。

サヨナラの無い、また遇いましょう、あえることを喜びとしましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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