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執筆者の写真超法寺の住職

しくじり、でも許されつつ

更新日:2022年9月5日


おはようございます。

今日もいつもと変わらぬ朝を迎えました。

こんな当たり前なことがなぜか有り難いです。

もう何日、何十日、何百日•••過ごしてきたことでしょうか。

しかしながら、今日と同じ日は二度としてなかったはずです。それぞれが二度と味わうことのできない「今」をそれぞれ意味を感じながら過ごしています。


それでは一体どんな意味があるのだろうか。

それは今はわからない。

時間を過ごす中で自然と知らされるもの。

すべてが上手く行くこともなく、たくさんの方々にご迷惑をおかけして知らず知らずのうちに悲しませたり、苦痛を与えていたり、怒りをもたらせたりしながら私は生きてきました。


口には「法」を仰ぎつついたはずなのにいつのまにか自分の偏見さを言葉にしていなかっただろうか。他を責めたりしてはいなかっただろうか、愚痴を言葉にしていなかっただろうか。

色々なことを日々繰り返していた私だったことでしょう。


自己の殻に閉じこもっていた私をその殻から導き出してくれた人、時には厳しく、時には優しく見守っていてくれた人、それぞれに出会う中で私は生きていくことを許されてきたのですね。


先日の仏教テレフォン相談の場で相談依頼者から、「あなたはお坊さんだから悲しみや苦しみは修行してさとり、乗り越えておられることでしょうね?」と言われました。

果たしてそうなのでしょうか。

いやいや、そんなことはありません。

先日、最愛の母を見送る中で私は後悔や自分のことばかり考えていた反省ばかりでした。


意地を張り続け、母の心の奥底などまるで考えてはいなかったこと。「どうして」

そんなことばかりでありました。

いつも自分のことが一番でした。

とても他者を労わることなどできてはいない自分が常にありました。

しかしながら母はきっとそんな私を責めずにいてくれたのではなかったでしょうか。


今生前の母を思い返しながらそんなことばかり思うのです。ずっと母はいつも私を大切にしていてくれました。それは優しいばかりの母ではありませんでした。時に厳しく、時に叱咤の中、それでもいつも「愛情」いっぱいで怒りの感情などぶつけられたことはありませんでした。


【十億の人に十億の母あらむも、わが母にまさる母ありなむや】〈暁烏敏〉(あけがらすはや)


※真宗大谷派の僧侶(1877-1954)



人生を生きる中に皆それぞれの人生経験の中で様々なことを知り、言葉にして伝えてくださいます。


【善をなす場合には、いつも詫びながらしなければいけない。善ほど他人を傷つけるものはないのだから】(ポール•ヴァレリー)


【私は何があっても言い訳だけはするまいとーそれだくは固く心に決めてやってきました。スポーツもビジネスも同じでしょうが、言い訳をする人間は伸びませんかよ。】(清川正二)


【人を思いやることが、良い結果へとつながる】

(仏教の教え)


さまざまな偉人賢人が教えていてくださいます。

それでも私は今もなお真逆な生き方をしています。お恥ずかしいですね。

今年だけでもどれだけ多くの方々を悲しませ、辛い思いを抱かせてしまったことでしょうか。

改めて自身の不甲斐なさを反省するばかりです。

五十半ばを生きながら未だに未熟な私であります。

資格ばかりで身にならず生きている愚かな薄っぺらい私です。

そんな私を責めもせずにおられる大きな何かに励まされ突き動かされながら私は今日を生きていきます。


修行などはやることにはそんな意味は無いのかも知れない。やり遂げてこそだと思う。

もっと言えば、もう十劫もの昔に阿弥陀さまがこんな私こそを救いのど真ん中に見据えている【ご本願】を仕上げていてくださるのだから今更何を悟ろうというのだろうか。

言うならば親が喚び通しに泣くことしかできない赤ちゃんが、自分でミルクを作り飲み、オムツも自分で取り替えるようなものではないだろうか。

(ま、赤ちゃんにはできるとは思わないが〉


それでもやってみることで何かには気づかされることはあるはずです。

やらずに言葉だけで語るのは一番愚かな行為だと思います。


いかがでしょうか。

先に誹謗中傷された方が言われましたが、「貴方の檀家さんは減っていますよね」

確かにそうかも知れませんね。

それでも未だに足を運んでいてくださる方はございます。私のような未熟なものにです。

檀家(門信徒)さんは、私のではないのですよ。

阿弥陀さまからお預かりしている大切な人たち。

だから私がお世話できる中でのものであります。

お坊さんは浄土真宗本願寺派だけでもかなりの方がいらっしゃる。

だから私で用が足りなくても大丈夫なのです。


皆さまそれぞれが安心しておまかせすることができるお坊さんにお世話していただければそれで用事は足りますからね。

日頃からそのようなお寺さんとお付き合いしておかれることをオススメします。

超法寺は来るもの拒まず(例外もあります)去る者は追わず•••そのスタンスでやっています。


決して素晴らしいお坊さんではありませんよ。

それでもどんな方にも優しく笑顔で接していきます。人間にも動物にも。

そんなお寺があってもいいじゃないでしょうか。

「お前は動物園をつくるつもりなのか」と某上司から言われましたが、言葉にはしませんでしたが動物園にはナンマンダブツはないですよね、超法寺には南無阿弥陀仏がありますから大丈夫だと思いますよ〜って思っていました。


ナンマンダブツがあるところにはいつも阿弥陀さまがいらっしゃいます。


それだけで十分意味があると私は思っています。

人間が救われるのに動物は救われない?

そんなせせこましいお救いなのですか、阿弥陀さまは?

いえいえそんなことはありません。

あらゆる命をナンマンダブツ一つでお救いくださる本願力を自信を持っていただいていきます。


《み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ、強く明るく生き抜きます》


お母さん、そうですよね。

あなたが好きだった浄土真宗の生活信条を私は今もありがたくいただいていますよ。

お母さんありがとう。

これが超法寺であります。


ナンマンダブツ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ

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