「しあわせ」には様々あるけれど
- 超法寺の住職
- 5月12日
- 読了時間: 2分
皆さま、おはようございます。
今朝は小雨が降っていますね。
このまま梅雨に入ってしまうのでしょうか。
ま、それはそれで早く夏が訪れるので良いのかも知れませんね。
朝日歌壇にこんな投稿がありました。
「しあわせを願う相手がいることがしあわせなのだと何度目の桜」
ひらがなで「しあわせ」と書いてありましたが、始めの「しあわせ」と次の「しあわせ」は中身が違います。
最初の「しあわせ」は「幸せ」、次の「しあわせ」は「仕合わせ」ということではないでしょうか。
そして本当の人間の道は他人の「しあわせ」を願うようになることではないかと私は思うのです。昨今では、あまりに自分だけの「しあわせ
」を願うあまりに他者を傷つけ苦しめてしまっているように思えてなりません。どうでしょうか。
【仏心とは大慈悲これなり】
「慈」とは、相手を自分のごとく見る心をいいます。だから凡夫(死ぬまで欲から離れられない者)の苦悩が、そのまま仏さまの苦しみ悲しみになります。
「悲」とは、相手になって相手を見る心をいいます。凡夫一人一人の身になってみれば、欲で罪を作るのも、憎しみの心であって悪を行うのも無理のないことですね。
こうしなさい、あーしなさい、こうなりなさいとは言えない。ただそのまま抱いて悲しむよりありません。
その大慈悲の心で何とか苦悩の衆生(主に人間)を救ってやりたい、「しあわせ」にしてやりたいと、仏心(ぶっしん)、仏ごころのまことが、南無阿弥陀仏となって我らに与えられているのです。そのお念仏に救われる人は、自ずから他人の「しあわせ」を願う人になるのでしょうね。
妙好人(みょうこうにん)として有名な念仏者、源左(げんざ)さんは、苦しみも悲しみも全てを「何事も因縁だけなぁ」と受け入れて、「仏の中の大王様が、生まれぬ前(さき)から見抜いてくださって、苦まで与へて親を知らせて、連れて帰る大願だけのう。」と、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を申される源左さんでありました。
なかなかこのような生き方はできないでしょうが、様々な姿、形となって私に一番合ったものとなりはたらき続けておられます。
だから、今ある私の今を大切にしてやらせていただきたいと私は思うのです。
南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・
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