皆さま、こんにちは。
令和四年も早一週間が過ぎてしまいましたか?
初詣されましたか?
何を祈願されましたか?
しあわせ(幸福)ですか?
それとも?
しかしながら、皆さまの人出の増加によりオミクロンが蔓延していますね。
まだまだ新型コロナウィルスは終息などしていないことをご理解していないようですね。
私たちはなかなか自分を基本にしませんと生きれませんね。悲しいですが。
帰り道、小京都、川越の中心街を通りましたが、大変多くの方々が観光されていました。
人気店には数多くの方々が密着しての行列を作っていましたが•••学習して欲しいなぁ。
しかし人間ってすぐ忘れてしまうのです。
そしていつも自分だけは大丈夫だと思い違いをするのですね。
いかに神仏に祈願してみても叶うことはありません。
だって神仏の願いを聞かないのだから。
なるようにはなる。
なるようにしかならない。
それは私の思いのようにはなりませんということですね。
「人間が不幸なのは、自分が幸せであることを知らないからである。」(ドストエフスキー)
皆さまはどう思いますか?
また、「しあわせ」という字は漢字でどう書きますか?
きっとほとんどの人は「幸せ」と書くでしょうね。
しかしながら、『広辞苑』で「しあわせ」を調べますと驚きの結果が出ますよ。
一番最初には「幸せ」ではなく、「仕合わせ」と出てきます。
意味は、①めぐりあわせ。機会。天運。②なりゆき。始末。③(「幸」とも書く)幸福。さいわい•••とあります。
皆さまが当たり前に書いている「幸せ」はおまけのように出てくるのです。
びっくりですね。
仏法を聞いて初めて「仕合わせ」ということを知らされます。
負けることよりも勝つことに価値があり、損をせずに得をすることが大切だと考えます。
その結果、いつも他者と比べ合う中で、お互いを値踏みして優劣を競っています。
勝った方には優越感という幸福が微笑み、負けた方には劣等感という不幸が訪れます。
「幸せ」は、他人の不幸の上に成り立っているようなもので、とても残酷ですね。
今の時期なら受験がまさにそうではないでしょうか。合格して大喜びして胴上げされている中に、自分の知らないところで不合格の悲しみ、絶望感を味わっている方がたくさんいらっしゃるのです。自分には関係ないと言えますか?
《「幸せ」という花があるとすれば、その花の蕾(つぼみ)のようなものだろうか。「幸い」という字がある。もう少しで「幸せ」になれそうな字である。》[星野富弘]
前向きになれそうな言葉ですが、反対から見れば今は「幸せ」でも、いつ、それが「辛い」に変わってしまうかもしれない不安な綱渡りと言えます。
どんなに「幸せ」を今感じていても、悲しいかな私たち人間は、いつでもひっくり返る危険性を孕んだものに不安を感じながら、なんとか幸せになりたい、幸せでありたいと生きているのです。
昨今の新型コロナウィルス、オミクロンの大流行は、そんな私たちの愚かな生き方が引き起こしたものではないでしょうか。
私は今、そう感じています。
人間は一人では決してしあわせにはなれません。「仕合わせ」、まさに多くの方々のお力添えあればこそのものではないかと感じています。
私は新型コロナ警察にはなりません。
だからこそ、真実なる阿弥陀如来の願いを仰ぎながら今を生きていきます。
南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ。
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