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執筆者の写真超法寺の住職

しあわせになりたい人へ

皆さま、こんばんは。

今日はどのような一日でしたか?

私はご指名のお参りへ国分寺市まで。

前々から業者さまからのご紹介にて仏縁を結ばせていただいています。

こうやって縁が続くということは大変有難いです。なかなか僧侶派遣はある時のみになるものですからね。


余程の縁がなければこれほど続くことはないのでしょう。前々から母が亡くなったら住職にお願いしようと思うとのご連絡をいただいていました。しかしながら思いの外早いご連絡となりました。ご家族の悲しみに寄り添えたかはわからないけれど、阿弥陀さまは必ず救う、まかせろよ、と南無阿弥陀仏と喚んでいてくださいます。そこで改めて浄土真宗の【信心】についてお話しさせていただきます。


親鸞聖人はさまざまにおっしゃっておられます。「たのむ」とおっしゃいます。

「したがう」とおっしゃいます。

あるいは「如来さまにはからわれる」とも、おっしゃいます。私の疑いの心は、そうたやすくは晴れません。


信じたらいいのでしょうか。

信じなくてもいいのでしょうか。


どうしたらいいのでしょうか。

私の心を詮索しますと、色々な問題がおきてまいります。

親鸞聖人は、「たのむ」「したがう」「如来さまにはからわれる」というようなお言葉をお使いになられて、私がはたらきかけられていく世界ではなく、阿弥陀如来のはたらきの中に、私が生かされているのだということを、お教えくださるのです。


大変難しいのですが、一度や二度聞いてわかる世界ではないでしょうし、いくらこちらにおいてもわからないです。

ただ、暗記したりしても結局、「老い」により忘れていく私がいますからね。「忘却」は人の常であります。そんなことは阿弥陀さまはご承知しておられますよ。


もし、覚えて暗記して救われる道ならば、最後まで忘れてはいけないということになります。

私の力、努力によって救われていくということになるのなら、毅然として、堂々と胸を張って、この世に生を受けて良かった、何も思い残すことはない、ありがとうございましたと、命を終えていくことができるのでしょう。


しかし私たちは条件次第で何がどうなるかがわかりません。聞いてきたこと、覚えてきたもの全てを忘れてしまうことだって有りうるお互いです。

阿弥陀如来は、あなたの善悪は一切言わないぞ、良くても悪かろうが阿弥陀が常によび続けてくださっているのです。


【何も残らない。何も残らないけれども、お念仏ひとつが残ってくださるということは、有り難いことだなぁ】


とある方のご臨終前のお言葉と聞いています。

残念ながら我が父ではありません。

きっと父もそのような気持ちであったとは思いますが、苦しみの真っ只中にありましたから、このような落ち着いた最後ではなかったでしょう。でも何も心配いらないのです。

阿弥陀さまのおはたらきに身をまかせていたら、どのような最後を迎えてもそのままでよいのだから。


ある人は、人生最後に南無阿弥陀仏がないとは情けないなどと口の悪い人がおられます。

はたしてそうなのでしょうか。

いや、そうではありませんよ。

親鸞聖人はおっしゃっておられますよ。

【遠く宿縁をよろこべ】と。

はるかかなたからこの私にはたらき続けのご縁をもうちょうだいしているのですからね。

父も母も南無阿弥陀仏を称えながは生きてくださいました。

そのお念仏の声を聞きながら私は生きてきたのですからね。


変われない私のために、阿弥陀が変わってくださるはたらきなのですから安心です。


この度、往生された方、お疲れ様でした。

また、南無阿弥陀仏の中にお会いしましょう。

【南無阿弥陀仏をとなふれば、十方無量の諸仏は、百重千重囲繞して、よろこびまもりたまふなり】南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


しあわせになりたい人は、どんなことがあっても、常に南無阿弥陀仏を称えながら生きていくのです。そして、私が出逢う全ての人を、「あなたも仏さまになる人です」と、手を合わせていくことを実践していきましょう。

そうすれば必ずしあわせにしかなりません。


とある念仏者のお言葉です。

お互い大切にしていきましょう。

来る人、去る人、来ない人。皆阿弥陀さまがご一緒くださいます。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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