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執筆者の写真超法寺の住職

ご先祖って何?

皆さま、深夜にすみません。

早めに寝るとこの時間に目が覚め朝まで眠れません。老化が激しいです。

さて、「ご先祖」は誰でも死ねばご先祖でしょうか。皆さまのご先祖は何人いらっしゃいますか。その内、面識のあるご先祖は何人いらっしゃいますか。

私の親(2人)、祖父母(4人)、ひい祖父母•••この辺りまでは知っていますかね。

日本人はとかく「先祖代々」が好きです。


改めて考えてみました。

ご先祖が何人か気になる方は是非お寺へ参ってお聴聞してみましょう。


さて、替え歌で有名な嘉門達夫さんって知っておられますか?彼の歌に『法事』と題するものがありますがご存知でしょうか。

歌のバック(伴奏)に木魚がポクポクポクと流れる中で、「親せき一同皆んな集まって、あー法事。今日は法事」と始まり、「うちのおじいちゃんが死んで何年•••(中略)中には10年ぶりに会う人も、父親の弟の嫁さんの兄貴の息子のいとこかなんかもやってくる。•••••」 という歌詞であります。

皆さまが勤めている法事でもこういうことありませんか?


柳田国男さんという方が『先祖の話』という書を出しています。昭和20年ですから私はまだ生まれていません。柳田さんは、人が死ぬと四十九日間、荒魂(あらたま)と呼ばれる死者の霊は、住居の周辺にとどまっている。

それが三回忌、七回忌と順々に法事が勤められることによって、その荒魂は次第に浄化され、三十三回忌(あるいは五十回忌)を経る中で、神聖な「ご先祖」の仲間入りをはたすのだという指摘をされています。


これは浄土真宗の話ではありません。

あくまで柳田国男さんの『先祖の話』です。


浄土真宗の葬儀では行わないのですが、今でも葬儀の出棺の際、お棺を何度もグルグル回すという風習が残っているところがあるそうです。

(目を回してわからなくするらしい。しかし故人はもう亡くなっているのだから目など回すはずもないのに。)


それは二度とこの家に帰ってこないようにするということからされているのだそうです。

もう二十一世紀だというのにね。

私が子どもの頃には二十一世紀はアトムが空を飛んでいましたよ。

茶碗を割ったりするのも同じ意味です。

それでも「お盆」には帰ってきて•••何だかよくわかりませんよね。人間って勝手です。 仏教を知らないとこういうあべこべが当たり前にやれてしまうのですね。

また柳田さんは、古来からの日本人の死生観は、「死ねば魂は山に登っていくといふ感じ方が、今なほ意識の底に潜まって居るらしい」「死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業(なりわい)を見守り、その繁栄と勤勉とを観念して居る」と述べておられます。

また、柳田さんはさらに鋭い問題提議をしておられます。 先祖とは、その家の最初の人という、血縁上のルーツではなく、子孫たちの宗教儀礼によって初めて、先祖になるのだと指摘されておられる点です。

日本人というのは、長く鎖国で国が閉ざされていましたから、今から何代か遡ると、多少なりとも、何らかの血縁関係に行き着くのではないかと、しばしば言われます。 それが本当ならば、日本人には特定の先祖など存在しないということになります。つまり、子孫によって宗教儀礼たる法事が行われることによって初めて、私たちの固有の「ご先祖」になるのだと柳田さんは結論づけておられるのです。

いかがでしたでしょうか。皆さまのご先祖について改めて考えさせられましたでしょうか。 「死ねば仏」も同じく仏教を知らない人の願望でしかありません。仏の親心を知らずに自分勝手に往生しようなんて厚かましいですよね。 そう思いませんか? 神仏に見放された私だからこそ、宝蔵菩薩の誓いが起こされ、阿弥陀如来の「ご本願」が建てられたのです。そこを知らずに良い結果だけ望んでも本当のお救いを知れるはずはありません。だから、ちっとも嬉しくない。だから、南無阿弥陀仏が我が口にいただけないのではないでしょうか。 そんな気がするのは私だけでしょうか。

私は実家を出てしばらくして久しぶりに実家へ帰ったとき、母が孫に「この人は誰?」って聞いたんだよね。すると姪はニコッと笑いながら「知らないおじさん」と言ったんだ。 未だに傷ついています。もちろん姪だから可愛くないはずは無いけど、素直に好きにはなれていませんよ。やはり私は「凡夫」なのですね。 そんなことを思いながら、さすがに眠たくなってきた。

おやすみなさい。南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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