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この世はリハーサル

以前、浄土真宗に関心のある友達に「死んだ先はどんなところだと思う?」って聞いたことがありました。すると「真っ白な世界、無の世界だと思う」と言った。

皆さまはどう思われますか?

「そんな行ったこともないところなんかわからないよ」と言われるかも知れませんよね。

私自身、全くイメージがわかないけど、南無阿弥陀仏を称え、疑いなく生きていけば、命終わって目を閉じて、次に目が開いたら、光り輝くお浄土に生まれていると聞いたことがあります。


私たちは何のために生まれてきたのでしょうか。そして何のために日々生きているのでしょうか。娑婆の縁が尽きれば今夜にでも死なねばならない儚い命だというのに。

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迷いの世界「煩悩具足」(心と身体の悩み)から、悟りの世界「真理の仏」(苦悩から脱却した真実の命)に乗り換えるため、仏さまになる(成仏)ためです。

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そんなものになってどうするのか。

お釈迦さまの教えを信じる人は、この人間の身体が無くなって完全な悟りに入り仏さまになります。

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私たちは、老いゆく身体があるがために苦しんでいるのに、骨になったらまた骨に執着するものです。親鸞聖人は亡くなる時に「死んだら鴨川に流して魚の餌にせよ」と遺言されたのは有名な話ですよね。それなのに煩悩具足の凡夫は、死んでからも残るものにとらわれてしまう。

だから自力では救われないのは間違いないです。

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仏さまにならせていただくと、仏さまは迷い(苦悩具足の凡夫)の人々を救う仕事(南無阿弥陀仏の声を届けて、仏法聴聞を勧める)をされます。【成仏したら煩悩に苦しむ人々を救う】仕事をするのです。

ですから、ゆっくり休んでなどいられないのです。

親鸞聖人はご和讃で、

観音勢至菩もろともに

慈光世界を照曜(せうえう)し

有縁を度してしばらくも

休息(くそく)あることなかりけり


と申されておられます。


仏さまになったら、「救うはたらき」となって、浄土から還って私たち(人々)を救うためにはたらき続けるのです。

つまり、残された私たちは「あ〜、これで安心だ」と思っているが、私たちはやはり煩悩具足の凡夫です。まだ南無阿弥陀仏を申す身にも、お寺参りをして仏法聴聞をする人にもなってはいない。(なっておられる方ももちろんいますが)ので、ご遺族は安心でも、亡き人は安心できずにお浄土から還ってきて、人々を救う仕事をされるのです。


親鸞聖人は、それを【還相回向】(げんそうえこう)という言葉を使われましたが、これは特別な言葉ではなく、お釈迦さまが仰ったことを言われたのです。


「この世はリハーサル。浄土は本舞台」

これは恩師から常々教えていただいた言葉です。親鸞聖人は『教行信証』の中で真っ先に書いておられます。


私たちは死に対して、「恐ろしい」「不安なこと」

と思う人が多いでしょう。

死んだら「無」の世界に行きっぱなしと思うからなのでしょうね。

仏教も知らない、仏法も聴聞されない人には、「死人」というだけのものなのでしょうね。

そもそも自ら修行もせず、好き放題に人生を生きて、仏教も信仰せず、死ぬまで死にたくと執着する私がどうして死んだだけで「仏」になることができるのでしょうね。

そんな有り得ないことが、南無阿弥陀仏を称えて、仏さまにならせていただくんですね、と思いながら生きていくだけで阿弥陀如来は、何もわからない人を浄土に生まれさせ、輪廻転生しない悟りの仏さまにしてくださるなんて。

親鸞聖人は、【凡夫が仏になるなど不思議なものだ】と、【不可思議】という言葉を使われておられます。


時間軸をただ直線的に見ていくのか、はたまた円環的に見ていくのか、それでかなり人生が変わります。円環的に見て行ければ、その先にまた楽しみがあるのです。その先は南無阿弥陀仏を称える私にならせていただき、南無阿弥陀仏に抱かれた人生の先ということです。


阿弥陀如来の思うままに生きていく私になることが、先立って行かれた方が喜び、安心されることなんだと是非知って、先ずは年数回のお寺参り、またはご法事を怠らずに勤めていくことから始めてみましょう。

きっと故人さまの本当の願いが、故人さまの本当の遺言がわかりますから。


大切にしてください。南無阿弥陀仏

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