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執筆者の写真超法寺の住職

鐘を打っても煩悩は無くならないぜ

今年も残り4時間を切りました。

でも特に普段と変わらない時間が過ぎています。皆さまは年越しの準備は整いましたか。

私はお正月の仏華を生けたことだけです。

今年最後のブログ更新になるでしょう。

今年もたくさんの方々に読んでいただきしあわせでありました。

超法寺(いるま布教所)もおかげさまで7年目を迎えています。よくぞここまで来られたなぁというのが私の実感です。

不安定な法務が続く中、葬儀件数は減りました。減るとやはり不安になります。

それでも一年を通したら約90件もお勤めさせていただいています。減っても多くのご縁をいただいていますね。嬉しいことです。


葬儀後、ご縁が継続される方もありながら、ご時世なのか、葬儀だけでご法事はされない方も大変増えています。どんどん忘れられていくのです。あなたがしないならば、あなたが亡くなられたら、やっぱりあなたの子や孫はあなたを忘れていくのです。寂しくないでしょうか。


【五つの壁】

この世において、どんな人にも成し遂げられないことが五つあります。


①老いゆく身でありながら、老いないということ。


②病む身でありながら、病まないということ。


③死すべき身でありながら、死なないということ。


④滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。


⑤尽きるべきものでありながら、尽きないということ。


世の常の人々は、この避け難いことに突き当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはありません。

来年こそは仏法聴聞する人になりましょう。




「六つの行い」六波羅蜜(ろっぱらみつ)とは、

布施•持戒•忍辱•精進•禅定•智慧をいう。

この六つを修めると、迷いの此の岸(人間世界)から、さとりの彼(か)の岸へと渡ることができるので、六度とも言います。


布施は、惜しみ心を退け(喜捨とも言い返しては惜しんでいる)る。


持戒は、行いを正しくする。

忍辱は、怒りやすい心を治める。

精進は、怠りの心をなくす。

禅定は、散りやすい心を静める。

智慧は、愚かな暗い心を明らかにする。


布施と持戒は、城を作る礎(いしずえ)のように、修行の基となり、忍辱と精進とは城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身を守って生死(しょうじ)を逃れる武器であり、それは甲冑に身をかためて敵に臨むようなものである。


施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。

施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つを共に忘れるのが最上の施しであります。


正しい施しは、その報いを願わず、清らかな慈悲の心をもって、他人も自分も、共にさとりに入るように願うものでなければならない。

『大般涅槃経』


このように【布施】という心を間違えないようにしたいものです。仏教の教えもお寺の護持も、この布施のお心によって支えられています。


「七つの施し」

世に【無財の七施】と呼ばれるものがあります。財なき者にも成し得る七種の布施行のことであります。


①身施(しんせ)、肉体による奉仕であり、その最高なるものが捨身行である。


②心施(しんせ)、他人や他の存在に対する思いやりの心である。


③眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。


④和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。


⑤言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。


⑥牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。


⑦房舎施(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿に貸すことである。


以上の七施ならば、誰にでもできることであり、日常生活の中で行えることばかりなのであります。 『雑宝蔵経』


できることからしてみましょう。

普段からの心がけがあればこそ、布施は自然と身につきます。

するんじよない、させていただくのです。


皆さまのお心遣いあればこそ、超法寺はお寺と育てられていきます。入間市に浄土真宗本願寺派の寺院を残し、誰もが集える仏法聴聞の道場とお力添えを賜りたいと住職は願っております。本年も大変お世話になりました。

明年も何卒よろしくお願いいたします。

合掌念仏。南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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