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お釈迦さまのおさとし

「自灯明 法灯明」(じとうみょう ほうとうみょう)


仏教を開かれたお釈迦さまの最後の説法。

クシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれました。


弟子たちよ、お前たちは、各々、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ。

他を頼りにしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えを

よりどころとしてはならない。


弟子たちよ、これまでお前たちのために説いてきた私の教えは、

常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。

もし教えの通りに行うなら、常に幸に満たされるであろう。


教えの要は心を修めることにある。

だから、欲を抑えておのれに克つことに努めねばならない。

身を正し、心を正し、言葉を真あるものにしなければならない。

貪ること(むさぼること)をやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を

忘れてはならない。


心に従わず、心の主となれ(あるじ)。心は人を仏にし、また、畜生にする。

迷って鬼となり、悟って仏と成るのも皆、この心のしわざである。

だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。


弟子たちよ、私の終わりはすでに近い。

別離(わかれ)も遠い事ではない。

しかし、いたずらに悲しんではならない。

世は無常であり、生まれて死なない者はない。

今、私の身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身をもって

示すのである。


いたずらに悲しむのをやめて、この無常の道理に気づき、人の世の真実の姿に眼を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。

煩悩の賊は常にお前たちの隙を窺って倒そうとしている。

もしお前たちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ち着いてその部屋で眠ることはできないであろう。

煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。

お前たちは慎んでその心を守るがよい。


弟子たちよ、今は私の最期の時である。

しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。


仏の本質は肉体ではない。悟りである。

肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道とに生きている。

だから、私の肉体を見る者が私を見るのではなく、私の教えを知る者こそ

私を見る。

私の亡き後は、私の説き遺した「法」がお前たちの「師」である。


この法を保ち続けて私に仕えるようにするがよい。


弟子たちよ、私はこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて

説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。

私にはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべて皆、完全に説きあかし終わった。


私は今より涅槃に入るだろう。

これが私の最後の教誡(きょうかい) である。


※涅槃🟰ちょうどローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが

到達する境地で、これに到達することを「入涅槃」(にゅうねはん)という。

達した者を「仏陀」(ブッダ)と呼ぶ。

普通では三十五歳で仏になったときに「涅槃」の状態に達したと考えられている。



◎浄土真宗では、私たちは死ぬまで「凡夫」(死ぬまで煩悩から離れられない)は、

阿弥陀如来のお慈悲のはたらきにおまかせして「南無阿弥陀仏」をお称えすること

で、他力のお力(阿弥陀如来のお力)で往生させていただくのです。

ですから、死んだだけでは残念ですが仏になることはできません。

阿弥陀如来のお慈悲をいただくことが大事なのです。

ナンマンダブツの声が阿弥陀如来のはたらきです。

その声を聞いて、救われた喜びを声にします。

それが私の声とお念仏をお称えさせていただくのです。


先手、先手のおはたらきであります。

親鸞聖人はご和讃に、

 釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧(ぜんぎょう)方便し

 我らが無上の信心を 発起せしめたまひけり


と、仰せになっています。


 この道を行きなさいとお勧めくださるお釈迦さま。

 そして、その道を一緒に歩み、浄土まで導いてくださる阿弥陀さま。

 まさしく、父と母の心のようですね。

 父や母の心を知らずに育ち、死んでいくことほど不幸なことはありません。

 命のあるうちに、かならず仏法に遇わせていただきましょう。


悲しみが深ければ深いほど、阿弥陀さまのお慈悲の心は大きく響いてくださる。

                           (浅井成海師)

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