日本では二月十五日を【涅槃会】,
Oお釈迦さまがお亡くなりになられた日として法話会などの法要が勤まっています。
おしゃ二十九歳で出家し、三十五歳で悟りを開かれ、以後、四十五年もの間、も教えを説かれ八十歳で入滅されました。
入滅という言葉は私たちが亡くなった時には使いませんよね。
入滅とは滅度に入るということで、お釈迦さまが亡くなったとは言わずに入滅とか涅槃に入られたと言います。
入滅とは、「ニルヴァーナ」の発音に漢字を当てはめたものです。
元の意味は、火を吹き消すという意味だそうです。
火を吹き消した状態を【涅槃】といい、仏さまの「悟りの境地」のことを言います。
それを中国語に訳したのが「滅度」ということです。
ですから、煩悩をなくすことを悟り、仏になるというのです。
しかしながら私たちは死ぬまで煩悩から離れることがありません。
自分で悟りを開くことがありません。それなのに「死ねば仏」とか、「浄土真宗だから浄土に行く」などと自分勝手なことを口にされる間違ったモノの見方をする人がなかなかおられます。仏法も聞かず、お念仏も申さない人がどうやって悟りを開くのでしょうか。
煩悩とはつまり、自分勝手ということだと思うのです。
浄土真宗は【他力本願】だというのに、自分中心のモノの見方をして勝手に成仏しようと目論んでいるのでしょうか。何とも恐ろしい生き方ですね。
【門徒もの知らず】って、そいうことを指す言葉で、「門徒もの忌み知らず」っていう恥ずかしい言葉なのですよ、知ってください。
私たちは、常に自分の都合で周りを見て、都合の良いことを喜び、都合の悪いことを嫌い、それでいて煩悩を無くすことがありません。いつも自分だけは正しく他人は悪いと思っていますから常に争い、口論が絶えません。これが間違った生き方であるということに気づくのは真実なものに出遇えるからでしょう。では真実なものとは何でしょうか。それが仏教の教えであります。仏教の教え、つまり悟りに境地に至ったお釈迦さまの仏法を真摯に自分の生き方の鏡として照らしていくことが大切でしょう。
いつまでも自分の「殻」(煩悩)に閉じこもっていたら煩悩具足の凡夫であるという自覚すらない生き方となってしまいます。
そうなれば救いの喜びなどに出遇えることもないですから、常に不満、不足、妬み、腹立ち、愚痴から解放されることなどあるはずがありません。
お釈迦さまのように煩悩の火を吹き消すことなどできるはずもないでしょうから、悟りに至ることなどあるはずもないのです。
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、「阿弥陀如来は私たちのことを煩悩具足の凡夫であると見抜いてくださったのですよ」と教えてくださいました。
そして阿弥陀如来は、「あなたが煩悩具足の凡夫だからこそ、この阿弥陀如来が自身の力をもって必ず救うよ、だからまかせておくれ」とお誓いくださいました。
その誓いが力となって現れてくださったのが名号【南無阿弥陀仏】です。
声の仏さまとなっていつも私に寄り添っていてくださるのです。
つまり煩悩具足が救いの妨げにはならない力強いただ一人の仏さま、阿弥陀如来【南無阿弥陀仏】ということになるのです。
そうだからこそ、「煩悩を断ぜずして、涅槃を得る」と親鸞聖人は正信偈にうたわれたのです。是非、お心を正しくお聞かせいただきたいですね。
自分勝手に聞いては勿体無いですよ。
私のために、私を人生の闇から救うためにお出ましくださったお釈迦さまのご生涯を偲び経を読んでみましょう。【今現在説法】と言います。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
おやすみなさい。
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