皆さま、お変わりありませんか。
茹だるような激暑にクラクラしていました。
かなりの苦痛な一日でしたが、もう8月になってしまいました。相変わらず何にもろくにできていません。時間だけが過ぎていきます。
日頃から葬儀の際に法話をさせていただきますが、どう頑張ってみても皆さまのお口が【南無阿弥陀仏】とは動いてくださいません。
浄土真宗に南無阿弥陀仏の声がないなんて有り得ないことが令和の今は当たり前になりつつあります。
いくら「お念仏申しましょう」などと言ってみても虚しくなるだけ。
私たちは忘れて生きていくのです。
いや、忘れなくては生きてはいけないのです。
辛くても、悲しくても、苦しくても、それでも生きていかねばなりません。
ではどうしてお念仏申さねばならないのか。
ここを是非とも皆さまには問うていただきたいです。
なぜお聴聞するのか。
なぜお寺に参るのか。
皆さま、言葉だけは知っている。
でも、なぜお念仏申すことが大切なのかは知らない。決して亡き人に捧げるわけではない。
捧げるのならば、やはり南無阿弥陀仏と声にして称えて行かねばならないと思いますが称えません。手は合わせても口が南無阿弥陀仏とは動かない。浄土真宗では、合掌とは口にお念仏を称えてこその合掌なのです。
蓮如さまは、【寝ても覚めても命のあらんかぎり念仏申さるべし】と、おっしゃっています。
これは、【忘れるなよ】ということ。
何度も言いますが私たちは日に日に忘れてしまう。認知症にでもなれば確実に忘れてしまう。
また老いていくと大事なことを忘れて思い出せなくなっていきます。
悲しいかな、私はかなり忘れがちになりました。
それでもありがたいことに南無阿弥陀仏は習慣になっていますから安心です。
南無阿弥陀仏が声にあれば、私が忘れても周りが私の行き先をわかっていてくれます。
【念仏する人は、阿弥陀さまのお浄土へ往きたい人なんだ】と。
どんなに逆らっても、阿弥陀さまはあの手この手で私に仏縁を結ばせようとご苦労くださいます。
現に、葬儀の場でお寺さんが称えている南無阿弥陀仏を聞かせていただいています。
「必ずあなたを二度と迷わせない。二度と苦しませない。二度と命終わらせない。喜びのお浄土に生まれさせて仏にするから阿弥陀に任せてくれ」との大願なのです。
これだけ手当てをしてくださっているのに喜びもしないで、もちろん南無阿弥陀仏とお念仏も申されない私がいるのだから人間って生き物は不思議なのだ。
急がなくてもいいことにあくせくして、急がなくてはならないことに無頓着なんだもの。
いやいや、そんなことは阿弥陀さまは当にご承知なのです。わかった上で願いを起こして成し遂げておられるのです。
だから、どうしても称えない私のために先回りをして【聞其名号】(もんごみょうごう)、
我が名を聞いてくれとはたらいておられるのです。
しかしこれは阿弥陀さまの《本意》ではございませんよ。
すぐに生まれさせたいの願いですから、ずっとずっと『南無阿弥陀仏』称える私になるように引き続きはたらいていてくださるのです。
我が親が、我が子の私に名をつけ、呼び続けてくださり、私が親を知り、親を声でいつでも呼ぶように。
私はいつも葬儀の際に法話しますが、「私はきっと亡き人は仏さまで、私に南無阿弥陀仏を届けるためにわざわざお父さん、お母さんとなっていつも側にいてくれたんだと思いますよ」と、お話ししています。
そこまでしてまでも阿弥陀さまは私を本当のしあわせにしたいと願われているのですね。
知らず知らずのうちに私に確実に南無阿弥陀仏を聞かせるために今、この葬儀を催してくれたんだと思いますと。だからせめて、皆さま亡き人のために、亡き人へのはなむけとして是非一度だけ南無阿弥陀仏とお念仏を称えてくださいませんか。
そう話しているのですが、これがなかなか皆さま手強くて(失笑)
阿弥陀さまのご苦労が改めて思い知らされます。
この阿弥陀さまのお心がわかれば、花入れや火葬場で「サヨナラ」とは言わなくなるのでしょう。
浄土真宗の方は、「今まで有難う。またお遇いしましょう」と言います。
だって阿弥陀さまの願いをいただいたのだからまた遇えるお互いなのだから。
私もめげずに頑張ってお伝えしていきますよ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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