top of page
執筆者の写真超法寺の住職

お聴聞しとかねば

皆さま、こんばんは。

寒いですね。お見舞い申し上げます。


超法寺は今年は開教6年目を迎えて、法務も少しずつですが確実に増えてきました。

3年前の新型コロナ禍の悲劇をよくぞ乗り越えて、辛抱してきたことか。我ながら阿弥陀さまのお支えあればこそと喜んでいます。


何にも取り柄も経営者としての能力もない専従員(住職)ではありますが、阿弥陀さまのおはたらき以外には何も考えられないことでした。

未だにコロナ禍で激減した収入での持ち出し金は回収できてはいませんが、このままの状況さえ継続できればきっと乗り越えていけるのでしょうね。がんばります。


さてこの度は、浄土真宗の生き方は、聴聞に極まると言われています。

その聴聞がどれだけ人生の岐路に力を発揮してくださるかを皆さまにも知ってほしい。


[頭を下げよ、ご恩がわかる]


[頭を下げよ、教えが聞ける]


[教えを聞いたら、道が開かれる]


[教えを聞かないと、道が見えない]


[道が見えた者に、念仏がある]


[頭が高いと仏教は身に入らぬ]


[聴聞する者よ、金と時間を惜しむな]


[仏法は聞ける日に積極的に聞け、やがて

 聞けぬ日が来る]


[頭を下げて念仏する者にこそ、正定聚

 (しょうじょうじゅ)不退の位に住す]


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


◉広島県山県郡 円正寺元住職 信本崇明師


※どうして戦争の厳しさ、原爆投下の悲劇を広島県の人々は乗り越えてこられたのか、それはまさしく苦難の道をナンマンダブツと共に生き抜かれたからではなかったのでしょうか。

たとえ、5分、10分でもお寺へ駆けつけ熱心に仏法聴聞する姿勢には講師の私の頭が下がりました。今でも目に焼きついています。

皆さまは都会の華やかさ、広島県山間部を離れ首都圏にて都市開教へ従事される僧侶には敬意を払うが、その反面で取り残される過疎地の門信徒を犠牲にしていいはずはない。

両立することは難しいのだろうが、命の源流を断ち切ることは辛いし、一度離れた「縁」は戻らない現実も看過できない。

私の先祖は確かに広島県山間部のあの場所にあるのだから。

父亡き後、門信徒の皆さまは今どうしておられるか、思いを馳せてみました。


埼玉県入間市からは遥遠くではありますが、私は皆さまの笑顔、皆さまのナンマンダブツの声を忘れたことはありません。

私は今やれることをただ精一杯やるだけです。

閲覧数:22回

最新記事

すべて表示

Commentaires


bottom of page