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お母さん有難う

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

おかげさまで築地本願寺常例布教二日目を終えることができました。新たな人とのお出会いもありました。たくさんやらかしちゃったけど誰もそんな私を責めもせずに笑顔で立ち振る舞ってくださいました。また助けていただきました。ナンマンダブツ


今日の夜座は、我が母の生前の姿を皆さまにご紹介させていただきました。

ご讃題は、親鸞聖人のご和讃「釈迦•弥陀は慈悲の父母、種々に善巧方便し、われらが無上の信心を、発起せしめたまへけり」(高僧和讃•善導讃)をいただきました。

昨年往生を遂げた母でした。私は何とか母がいてくれる間に[いるま布教所]をお寺にすることを目標にしてきましたが残念ながら母にそれを見せてあげることはできませんでした。

それでも還相のおはたらきの中、常に私を見守っていてくださいます。寂しかったけど、毎日毎日、母とナンマンダブツを通わせて会話をしています。もちろん父とも。父とは生前より会話ができているように勝手に思っています。


二人の【諸仏】のはたらきがあればこそ、私のようなものが何とか[いるま布教所]を持続することができているのでしょう。

お母さんは、私が築地本願寺常例布教へ出向すると必ずお聴聞に来てくださる人でした。

わたしのようなものが、母の前で布教ができるなんて何てしあわせ者だったのでしょうね。

お母さんのあの笑顔は決して忘れません。


【諸仏】とは、

阿弥陀如来が、私たちを救うために、釈迦如来という姿をとり、あるいは薬師如来、大日如来、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩の形となり、時には「親」、「子ども」、「連れ合い」、「恩師」、「友人」となり、病人、老人などの種々の人間の姿となり、あるいは、「犬」、「猫」、「牛」、「馬」などの動物となり、あるいは、路傍の(ろぼう)草となり、食卓の一輪の花ともなり、また無生物ともなって【私たちをさとりの世界へ導いてくれる】もののすべてを意味していると思われます。


また宗祖親鸞聖人は、

「阿弥陀如来が、お釈迦さまのようなお姿[応身仏(おうじんぶつ)]や、人間や動植物など無量無数の身[化身仏]をあらはして、微塵世界(みじんせかい)に無ギの智慧光を放たしめたまい、私たちをお救いくださる」『唯信鈔文意』


と、おっしゃっておられます。

つまりは、わたしに関わっているさまざまな命は、私を救うためにさまざま姿の中に誘ってくださるものだということだと思います。

ただのペットや家畜動物ではないのです。

すべての命には意味があり、役目があるのだから。それ知らずして人間だけが•••としか見ることができないことは実に愚かなことではないでしょうか。そこまで手立てしなければ、仏に遇うことが難しいのでしょう。


妙好人と言われる源左さんも、亡き父からの遺言「これからは、おやさまをたのめ」がなかなかわらずにいましたが、背負うため重い荷物(牧草)を牛に代わってもらった時に、「フィッと」わからせていただいたと言われ、牛を南無(牛)如来と拝んでおられたと言います。


仏さまの広大無辺のはたらきを知れば知るほど、私がどんなにちっぽけな世界に身を置き、ちっぽけな論理で仏を語っていたのか思い知らされます。

聞き分けのつかない私にはそれだけさまざまなものの関わりが無くては仏さまの「親心」を知ることができないのでしょうね。


でも阿弥陀さまは、そんな私を決して責めずにそのまま抱き止めていてくださいます。

有難いことですね。

それでも、それでも•••••と、はたらき通しにはたらいていてくださいます。根比べですね。


また明日、精一杯のお取次させていただきます。おやすみなさいませ。有難うございました。南無阿弥陀仏

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