「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」
これは親鸞聖人の常の仰せてして《大無量寿経では、五劫の思惟、兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行と表記》は、この親鸞一人が為でしたと、仏に遇えた(あえた)喜びのお言葉です。
『日本一短い母への手紙』
[37歳の男性の手紙]
【母さんの日記、見つけました。毎日のように出てくる私の名前、ごめんなさい】
これは母を亡くされて、母の日記を見た。
毎日のように私の名前が出てくる。
母の人生は、ただ子どもである私の為に生きた人生だった。
その母の親心も知らず、母に苦労ばかりかけてきた我が身を「ごめんなさい」と侘びずにはおれなかった。
この男性はきっと、母を亡くされて本当の親に出遇えたのでしょう。
阿弥陀さまの本願も、名号(ナンマンダブツ)も、ただこの罪深き私一人の為でありました。
私を救う為でありましたと、頭が下がった人が、本当に阿弥陀さまに遇えた人だと思います。
皆さまは、ちゃんと阿弥陀さまに出遇えていますか?故人が命をかけて苦悩の人生を力強く生きていく方法を教えてくださったのですよ。
それを知らずに背を向けて生きていたら、きっとお母さんは喜んではくださらないのではないでしょうね。
私の母は、この頑固な私のためにナンマンダブツを受けたらせてくださいました。
こんな幸せな人生があったなんて。
浄土真宗のみ教えに遇えた素晴らしさは、慚愧(ざんぎ)🟰恥ずかしい
と、歓喜(かんぎ)🟰よろこび
の思いを知らされるからです。
お念仏の教えを【濁世の目足(もくそく)】と言われます。
み仏の智慧の目と、慈悲の足をこの身にいただいて生きていくのがお念仏の道です。
この煩悩具足の極悪人は、仏になるべき力も素質すらない、お恥ずかしい凡夫(死ぬまでは煩悩から離れられない私)であります。
慚愧(ざんぎ)あるがゆえに驕慢(きょうまん)にはならず、歓喜(かんぎ)あるがゆえに卑屈にはならずに人生を生き抜いていくのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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