皆さま、夜分に失礼いたします。
相変わらず激痛で目が覚めてしまいました。
ま、老いのためかも知れませんがね。
ふと「ナンマンダブツ」の声が出てきました。「あ〜、阿弥陀さまが心配なさってくださっているなぁ、いつもご一緒だとは有難い」と喜びでありました。
【知足】とは申します。
特に阿弥陀さまを仰ぐ私にならせていただくと「勿体無い」という思いに常になることができます。「それでもやっぱり私にはこれがちょうど良いんだな」って思えます。
南無阿弥陀仏とご一緒に生きるって頼もしいですね。だって忘れる私があっても阿弥陀さまさ忘れてはくださらないのだから。
【常照我】(じょうしょうが)です。
人生はただ一度きりであります。
必ず終わりが来ます。
それは誰とも代ることができません。
生きてきたんだもの。57歳の私を作り出すには57年かかるのです。それだけでもすごい。
「死」は必ず訪れます。
そして私の力では参らせていただけません、よいあの世へは。もちろん虹の橋なんてもっての外であります。
【地獄は私が作り、私が堕ちていく世界】
お花畑のような自分の殻に閉じこもり続ける私を仏は常に心配されておられます。
迂闊に生きている私たちへの厳しい贈り物です、それが「死」であります。
蓮如上人は『御文章』に私たちの生き様を「後生をばかってねがわず、ただ今生をばいつまでもいきのびんずるようにおもいはんべれ」と、おっしゃっています。
無常に生きている自らを忘れて、夢ばかり見続けている私たちの姿をおっしゃっているのでしょう。故人の最後の贈り物【葬儀】は、私たちの人生にとってまことに尊いものではないでしょうか。私は常々そう思っています。
まさに中国の道綽禅師の、「先に生まれんものは、後を導き、後に生まれんものは先を訪らへ(とぶらへ)」『安楽集』
いいですか、亡き人の喜ばれるものは何か、生前好まれた食べ物や飲み物を供えることだけではないのですよ。勘違いしないで。
仏になるとは【煩悩を脱却】していくのですから、欲しがらない境地になるということ。
それは私の力では成りません。
阿弥陀さまの【ご本願】の先手、他力のおはたらきひとつでそうなっていく【自然法爾】(じねんほうに)のおはたらきであります。
亡き人は、葬儀という仏事の場を通して、亡き人の行き先だけではなく、そのおいわれ、己が命の行き先を知る場であります。
南無阿弥陀仏とは、【阿弥陀にまかせよ、阿弥陀を親のように思い親とよんでくれ、必ず安穏な浄土という世界にあなたを生まれさせ、二度と輪廻転生(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)させない悟りの仏にする阿弥陀になっておるぞ】のお喚び声であります。
知らず知らずのうちに、私たち人間は、無常世界に身を置いていることを忘れます。
健康を思うがために薬でもないサプリメントを病の免罪符として頼り、今健康被害で大騒ぎしていますよね。「中性脂肪を下げる」に飛びつき、自身の生活環境は変えずにサプリメントを頼り結局、病になっていく。無常ですね。
仏法を聞く私になりますと、私の命のあり方に知らされます。亡き人とのお別れにお花を皆で棺いっぱいにしますよね。ま、ならないこともありますが。
私はいつもそれを見ながら思うのですよ。
「故人が残した人たちに人生をかけて、お花いっぱいの素晴らしいものを与えてくださったんだなぁ」って。その一つ一つが花の命となって故人への感謝として棺いっぱいになっているんだと。たくさんたくさん幸せん私にくださった故人。親なら子の歳ほど、喜び、泣いてくださった。心配してくださった。困らせてしまった。側にいてくださった、嬉しくて今でも涙が出てきます。
親ってありがたいなぁ。それに気づかせてああただけた我が人生でしたよ。
その思いのままが南無阿弥陀仏の阿弥陀さまの願いとなり我が身心に宿っていてくださいます。
サヨナラしない世界【倶会一処】(くえいっしょ)を知らされます。
「有難う、また遇いましょうね、ナンマンダブツ」と見送っていくのが浄土真宗のみ教えであります。こんな素晴らしいみ教えが他にありましょうか。いやありませんよ。
それを教えてくだされた故人さまは仏さま(諸仏のはたらき)だと思うのです。
だから私は常に南無阿弥陀仏を称えながら、今を生きていくのです。
何があっても無常世界に身を置いている私ですからね。でも大丈夫。阿弥陀さまが常にご一緒くださいますから。
私にちょうど良いのです。
明日(今夜)はライオンズ開幕戦[ホーム]です。おかげさまでチケット取れました。体調が悪くなかったら観戦しようと思っています。
ただ本当に毎日辛くて、それでも鞭打って南無阿弥陀仏を称えながら生きていくのです。
二度とない時間だから。
皆さまもどうぞ大切にお過ごしくださいませをおやすみなさい。南無阿弥陀仏
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