夜分遅くに失礼します。
ふと目が覚めました。煩悩具足の私に目覚めたのか、やはり老化の影響でしょうか。
まぁ老化なのでしょうね。
夢を見ました。
私たち浄土真宗のお坊さんは、通夜や葬儀の法話で「大切な人と別れても南無阿弥陀仏があればこそ、またお浄土で遇わせていただけます。倶会一処の世界です」とお話しさせていただきますが、現実にはなかなかそれを喜べない私もあります。
【執着】(しゅうじゃく)の心がふつふつと我が心を包み込んでいるのです。
それを見越して願いを仕上げておいてくださいます阿弥陀さま。悲しむのではないとはおっしゃっておられません。「悲しければ泣いてあげなさい」と、常に一切我が救いには障りがないとの仰せであります。
無碍(むげ)と申すは、煩悩悪業(ぼんのうあくごう)にさへられず、やぶられぬをいふなり、真実功徳と申すは名号なり。
『一念多念証文』
どこまでも執着心から離れられない私、煩悩から離れられない私にはたらいていてくださるお念仏も、南無阿弥陀仏といただきながらも、安心せよ、救うとはたらいていてくださいます。
私の悪業煩悩が【障り】にならぬとの仰せであります。
親鸞聖人はご和讃に、
光雲無碍如虚空[こううんむげにょこくう]
一切の有碍にさはりなし
光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき
難思議[なんじぎ]を帰命せよ
とおっしゃっています。
光雲無碍如虚空
「光、雲のごとくしてさはりなきこと虚空のごとし」と言われていますから、いつでもどこでも誰にでも、阿弥陀さまの光は注がれているのであります。「光」は届かない場所はありませんから、南無阿弥陀仏の声が「光」とはたらいて、もう既に煩悩具足の私は阿弥陀さまのお救いにあずかっているということなのです。
光沢
「ひかりにあたるゆゑに智慧の出でくるなり」
光沢であるがゆゑに、こころにいただくだけで、そのままの私が、救いのみ手にあるのであります。
罪悪深重、熾盛[しじょう]のわたしであるからこそ、そんな私を捨ててはおかれぬ仏(親さま)がおられるのでしょう。
どんなにお念仏(南無阿弥陀仏)を称えても、煩悩からは決して離れることができない、煩悩と共に生きていかねばならないこの私を、捨ててはおけぬと、火宅の真っ只中に飛び込まれて私を抱き、救うてくださり、私の苦悩の人生に【光】を与えてくださるのです。
悲しみの深い、いつまでも悲しみを喜びとすることがままならない私に、阿弥陀さまはそのまま包み込んでいてくださると受け止めていくことをお聞かせいただいていくことなのでしょうね。
深く生きる人生
それは 目覚めて生きる人生
松扉哲雄[しょうひてつお]師
阿弥陀さまの仰せにしたがい生きていくのですね。
夢にまで悔い、悲しみのこの私を「心配ないぞ」とはたらいていてくださるなんて、私はやはりしあわせ者でありました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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