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執筆者の写真超法寺の住職

お彼岸は仏法聴聞の機縁なり

皆さま、こんばんは。

いよいよ明日からお彼岸ですね。

入間市は明日はかなり寒くなる予報です。

暑さ寒さも彼岸までであります。

今日の秩父は梅がだいぶ咲いていました。

桜ももうすぐでしょうか。


明日ありと おもう心のあだ桜 夜半に

嵐の吹かぬものかは


親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗では、【彼岸】は仏法を聴聞することで、自分自身の日常の在り方や生き方を見つめ直す場として大切にしています。ただお墓参りで済ませる行事ではありません。『千の風』流行りましたよね。「眠ってなんかいません」ってありましたよね。あの歌はキリスト教的な見方ですが、もちろん仏教でも同じであります。

それなのに未だに故人はお墓で眠っているような思いに埋没してはいないでしょうか。


浄土真宗では【往生】と言います。

南無阿弥陀仏を称えて、阿弥陀さまのご本願のはたらきに身を委ねて他力の信心に救われていくのです。皆さま、お念仏は口から声に出てくださいますか。阿弥陀さまの【仏願】をいただくことができましたら、必ず我が口から南無阿弥陀仏の声が出てくださいますよ。

出ない人はまだ疑っているのですよ。

たまに「心の中で私はお念仏を称えていますよ」とお叱りをいただくことがありますが、これは残念です。そんなことはないのです。


だって皆さまは、我が親を心の中で呼ぶなんてことしますか?しませんよね?

「お父さん(パパ)」、「お母さん(ママ)」って声にするじゃないですか。

阿弥陀さまは、私の親となってくださいました。だから我が子と見抜かれている私が親を知れたら、必ず「お父さん、お母さん、南無阿弥陀仏」と声となるのですよ。

これがいただいた証拠であります。


ですから浄土真宗では、お仏壇にお仏飯を供えても、お線香を供えても、必ず口に南無阿弥陀仏を称えてお礼をします。【仏恩報謝】

故人への成仏を祈る追善供養ではなく、阿弥陀さまの恩徳を讃え、地獄(自業苦)行きの日暮しを過ごす私たちを覚りの【浄土】へ導いてくださる亡き人々【諸仏】を讃えていく行為であります。ここをきちんとしなければ大切な故人の私たちへの思いを知らぬままとなってしまいます。


お仏壇には打ち敷を掛け、ロウソクは朱色(喜び)、お香はなるべく(抹香)普段とは違う良い香りのものを用いたいものですね。


【お彼岸の由来】

お彼岸は、昼と夜の長さが同じになる春秋の中日(春分、秋分)をはさんで、前後一週間のことを言います。


仏教徒にとって、大切な学びの場、仏道を修する仏教行事を【彼岸会】、浄土真宗では【讃仏会】とも言います。

お彼岸の【彼岸】という言葉は、私たちが生きる迷い(煩悩)の世界を【此岸】と言い、その迷いの世界を超えた覚りの世界である阿弥陀さまの【浄土】を表す言葉です。

※仏教徒が往く覚りの世界は天国ではなく、浄土であります。間違えないでください。


私たちが還るべき世界でもあり、覚りとは真反対の生き方をしている私たちを輪廻転生から脱却することができる唯一の道、【他力信心】を知ることが願われているのです。

【他力信心】とは、【南無阿弥陀仏】を称えながら生きていくことであります。


阿弥陀さまから、「あなたは何を尊いこととして生きていますか」と問いかけられている世界を仏法を通してお聞かせいただくのです。

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浄土真宗のお彼岸は、仏さまのみ教えを聞き、お彼岸のお心をご先祖さまを縁として訪ねていく大切な行事なのです。


花びらは散っても、花は散らない。

形は滅びても、人は死なぬ。


これは金子大榮師の『意訳歎異抄』の中に出てくる言葉です。


永遠は現在の深みにありて未来にかがやき、

常住(じょうじゅう)は生死(しょうじ)の彼岸にありて生死を照らす光となる。

その永遠の光を感ずるものはただ念仏である。


※南無阿弥陀仏と称えて極楽浄土に生まれて欲しいとの阿弥陀さまの願いをいただきながら生きていくのです。その南無阿弥陀仏の声の中に、懐かしいお父さん、お母さん、ご先祖さまが宿っていてくださり私を喜んで護っていてくださるのですから。

亡き人が一番喜んでくださるのは、私が愚痴や他人の悪口ばかりを言うこの口に南無阿弥陀仏を称えて生きていく私になることなのであります。


超法寺では23日14時から春季彼岸会をお勤めいたします。どうぞお参りくださいませ。

また、ご自宅での読経をご希望される方はお知らせくださいませ。関東一円お参りさせていただきます。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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