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お彼岸って何だろう

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんにちは。

連休最終日いかがお過ごしでしょうか。

また秋のお彼岸に入りました。

お墓参りに行かれる方もあるでしょう。

交通事故には十分ご注意ください。

ただ、ご先祖はお墓にはおられませんよ。


以前流行った『千の風』を思い出してください。あの歌詞は基本、キリスト教的な要素があります。「風になって」という歌詞はそんな意味なのでしょう。

私たち、阿弥陀さまのお慈悲に救われていく道は風になるのではありません。

「南無阿弥陀仏になり私と共にある」のです。


トンチで有名な臨済宗のお坊さん、一休さんは、蓮如上人と大親友であったと知られます。

禅宗のお坊さんは、シャレがあり、悪くいえば嫌味な物言いがあるとも言います。

彼は彼岸の世界についてこのようにおっしゃっています。

【阿弥陀仏 みなみにあるを知らずして 西を願うは はかなかりけり】


さて、みなさま意味はおわかりですか。

西方浄土、西だ、西にと浄土は西なんだとお聞かせいただく私たちですが、一休さんは、【みなみ】だぞ!と、言われます。

なぜでしょうか。

ヒントはなぜ一休さんは【みなみ】をひらがなで書いているかです。

答えは、東西南北の南を言われてはいないのです。

【皆の身】と解釈すれば、南無阿弥陀仏となり私の身に常にあるのが阿弥陀仏である、と知られます。

また、【南無の南】と解釈すれば、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に南無するという意味ですから、阿弥陀仏に信順する、おまかせする、ということでしょう。

南無阿弥陀仏を我が身にいただけたからこそ、南無阿弥陀仏が私の口から声となって出てくださるのです。

つまりこれも【皆の身】と同じことです。


さすがはトンチの一休さんですね。

禅宗のお坊さんでありながらも、蓮如上人と大親友なことだけありますね。

ちゃんと阿弥陀仏のご本願[他力本願]がわかっていらっしゃるのですね。


さて皆さまは、我が家は浄土真宗だから安心などと勘違いしていらっしゃいませんか。

阿弥陀さまは浄土真宗の方を救う仏さまではありません。

死ぬまで煩悩から離れられない凡夫[つまり私]を南無阿弥陀仏一つで救おうとはたらかれる仏さまです。


だから、阿弥陀仏のお救いのおいわれも聞かない、南無阿弥陀仏も申さない者を救うなどとは言われていないのです。南無阿弥陀仏が私の口から声となって出ないのではないですか?

大丈夫ですか?

皆さまのご先祖の願いはお墓参りをしてくれ、お供え物を持ってきてくれ•••••ではないのです。

私の常識🟰真実ではないことを自らの死を通して知らせてくださっているのです。


「親は死してなお我が子を育てる」


真実に遇ってくれよ。

天国へ行くんじゃないぞ、地獄でもないぞ、墓で眠るんじゃないんだぞ。

阿弥陀さまのみ教えと出遇って、南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことで本当のしあわせになってくれよとの切なる願いを私たちに日々届けていてくださるのです。


だからといって、お墓なんかに参るななどとは言っていません。人間は自分を中心に物事を理解しようとするので、すぐ偏見な理解をしがちですが、お墓にご先祖がいるんじゃなくて、お墓へ参ることで生前の姿を思い出す場として大切な意味を為すと思います。

しかし、それだけで終わらせてしまったら勿体無いと申しているのです。


仏法聴聞して、真実の世界を知ることが何より大切なことだということを忘れてくれるなよ、とのご先祖のお願いをしちしっかりと訪ねていく機会がお彼岸なんだと受け止めたいものですね。


私たちの生きる世界を【此岸】(しがん)、

悟りの仏の世界を【彼岸】と言います。


死ぬまで煩悩から離れられない凡夫は、自らの力では彼岸(仏のさとり)へ行くことはありません。

そのことを知るためには、お墓参りだけではいつまで経ってもわからないままです。

やはりお寺で(浄土真宗)仏法聴聞して、南無阿弥陀仏を聞く中に日暮しを送ることが大切だと思います。


【聞いて忘れて 忘れて聞いて わたしゃ籠耳 お慈悲の水に今日も一日 ざぶりと浸かり ご恩喜ぶ しあわせ者よ】


最後に今日は、「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」が勤まる日です。超法寺にはまだ喚鐘(かんしょう)がありませんので13時に大鐘を鳴らします。全戦没者とは、有史以来全ての戦時において命を落とされた方々という意味です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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