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執筆者の写真超法寺の住職

ナンマンダブツは私のために

皆さま、おはようございます。

5月も残りわずかとなりましたね。

あっという間に一日が過ぎていきます。

のぞみ新幹線のような速さで過ぎていきます。

そして、それは私の人生の終わりも近づいています。後どれほど人生の時間が残されているのだろうかと最近思うことが増えました。


しかしながら、おかげさまで既に私の参る道は明らかにされてあります。それを私がしっかりと受け止めているので安心ですね。

生きたいという煩悩は離れることはありませんが、何が起きようとも阿弥陀さまがご一緒ですからすべて阿弥陀さまの仰せのままです。

私はその仰せに従って生きていくのみであります。


さて、『正信偈』には、親鸞聖人が阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩であられた時、すべての命を救える仏になるために気が遠くなるほどの時間を考えて考えぬかれたと、「五劫思惟之摂受」と、おっしゃっています。

ここでいう「五劫」とは、【四十里四方の岩があるとします。四十里ですから、一辺の長さが160kmほどになります。その岩に3年に一度、天女が舞い降りて、羽衣の袖でその大きな岩を一撫でして帰っていきます。これを幾度となく繰り返してその岩が擦り切れて無くなる時間を一劫というのです。】


これがまた5回繰り返された時間が【五劫】。

気の遠くなるほどの時間をかけて私たちを救う術を整えられたのです。


つまりは、どういうことか。

それほど私たち凡夫の罪深いことを表しているのではないでしょうか。

だって、地獄へ堕ちるような生き方を何の不思議もなく、それが正しいこと、当たり前のことのように思って生きているのだから。


当然、南無阿弥陀仏なんか有り難くも何もない。だから聞くことも嫌、称えるなんて•••。

皆さまはいかがですか?

お念仏が口に称えられていますか?

お念仏がありがたいですか?


それほど私たち人間(凡夫)の罪は深いというのに、それに気づくことがない。

しかしながら、阿弥陀如来はそんな私たちであるから、一人残らず救いとりたいと【ご本願】をしれないのか。


喜ばない、喜べない、それもこれも阿弥陀さまには「想定内」、だから受ける私の側の手垢は付けてはならないのです。

聞こえたまま、聞いたままを疑いなく受け取るのみで用事が済みのであります。


しかし、なかなか頑固な私であります。

そう簡単にこの口が声にはなってくださいません。だからあの人が、この人があの手この手で私を素直にならせるためにまるで諸仏のようなはたらきとなって私が素直になって南無阿弥陀仏を声には称える人に育ててくださいます。


称えるくらいは少し頑張ればできるでしょう。

しかし、称えたら救う阿弥陀さまではありません。仏の親心に心が砕けたことが大事であります。


【報土往生(即得往生)多からず、化土(仏智を疑うもの)往生少なからず】と、はっきり申されています。


お念仏を称えたら救われるは親鸞聖人の仰せとは違います。

他力の道は、阿弥陀如来の「あらゆるものを救わずはおれない」という親心にふれて頑なな凡夫心が砕かれた(おまかせ)世界なのです。


だからこそ、おいわれを聞いて聞いて、わからなくなってまた聞いての繰り返しであります。

何せ、私たち人間は興味のないことは簡単に忘れてしまいますからね。

ましてや歳を重ねれば年々忘れやすくなります。【忘却】は世の常でありますから悲しいです。しかしそこも阿弥陀さまはちゃ〜んと手立てをしていてくださいます。


【忘れてもいい、忘れない私(阿弥陀)がいるから】と、いつまでもご一緒してくださるのです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、いつまでも離れずに、私とご一緒してくださいます。不安なら申してみなさい、悲しかったら称えてみなさい、苦しかったら問うてみなさい、悩むこと、悩みながら、その度に南無阿弥陀仏を声に称えてみてください。


阿弥陀さまが私らしく生きていく大きなはたらきをご一緒に歩んでくださいますよ。

数や声の大きさは問題ありません。

南無阿弥陀仏そのものが尊いのだから。


法然聖人は、信者から「私は恥ずかしくてなかなか大きな声で称えられないのです」と言われた時に、「お念仏は人に聞かせるものではないよ。自分の耳に聞こえるくらいで充分なんだよ。そして、お念仏が聞こえたらこう聞きなさい。お前のことはもう助けてあるから心配するな、と。」


素晴らしいと思います。

阿弥陀さまのおはたらきが届いたのが南無阿弥陀仏と私に聞こえてくださるのですから、聞こえた今ここに阿弥陀さまはいてくださるのです。つまりはひとりぼっちではないってことです。私をしっかり生かして、生きているって素晴らしいなぁ、嬉しいなぁ、安心だなぁって思える私になれるように阿弥陀さまはずっと応援していてくださいます。


だから、どんなにしんどくたっていいんです。

それは私だけがしんどいんじゃない、阿弥陀さまもご一緒くださるのですから。あははは、なんか面白くないですか?

だって、独りぼっちじゃない人生って楽しいじゃないですか。会話がなくてつまらないっていうなら、南無阿弥陀仏を称えてみてほしい。


金子みすゞさんの「さびしいとき」には、

私が寂しいとき よその人は知らないの

私が寂しいとき おともだちは笑うの

私が寂しいとき お母さまは優しいの

私が寂しいとき 仏さまは寂しいの


ってあります。私が一番好きな詩です。

ねっ?金子みすゞさんもおっしゃっていますよね。わたしが寂しいとき、仏さまは寂しいのって。私とご一緒の阿弥陀さまなんですよ。


あ、そうそう、来月25日14時から、金子みすゞを歌うシンガー【ちひろ】さんが超法寺へ来てくださいます。

興味がありましたらぜひお越しください。

先着10名ですよ。

まだ大丈夫です。


それでは今日も、阿弥陀さまとご一緒に生きてみましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



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