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いるま布教所七年目

皆さま、こんにちは。

今日は日差しが暑いくらいの陽気になりました。しかしながら風はやっぱり秋の装い。

すっかり忘れていましたが、超法寺(築地本願寺いるま布教所)は10月2日で開所七年目を迎えました。途中コロナ禍もあり存続危機も経験しながら、何とか辛うじてここまで閉めずにやってこれました。

これはひとえに超法寺で葬儀、ご法事、お寺参りをくださった皆さまのおかげであります。

衷心より御礼申し上げます。


まだまだ法人化への道のりは遥か彼方ではありますが、私の年齢を鑑みればよくぞ奮闘してきたなぁ、というのが実感です。

いるま布教所は賃貸の一軒家ですので、外見はとてもお寺の装いではありません。中には「こんなの寺じゃねえ」と言われご法事をドタキャンされたこともありました。

それでも毎月の写経会、安穏法話会には笑顔いっぱいの方々がお参りくださいます。

その皆さまのお姿が私の元気の源であります。


来るもの拒まず、去るもの追わず。


生前、父がずっと門信徒やお参りくださる方へ取り続けたスタンスでありました。

私は父のスタンスを踏襲しながらも、本当に超法寺を大事にしてくださる方々のために存在させていこうと考えております。


昔から浄土真宗の寺院は「聞法道場」(もんぽうどうじょう)と言われてきました。

なかなか普段聞くことの出来ない真実信心の仏さまの法をお聞かせいただく場こそが超法寺だと自負しております。

自分が好きな先生だけお話を聞くのは違うと思います。

今、聞いておかねばならないものを聞く。

今生最後の機会だと思い聞いて安らいでいく。

今を生きること。

私たちはお互いに、


【明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは】


という縁が尽きたならば、どんなに若かろうが、元気であろうが待ったなしに命を終えていかねばなりません。どんなに嫌だと言っても無常を生きている以上、どうにもなりません。

その厳しい私の人生をいかに充実したものとして前向きな日暮しを送っていくのかを【今】聞いておくのです。


【聞即信】(もんそくしん)


聞くが即ち信心なり。

私の都合で聞くのを信心とはいいません。


「聞くことは信心なり」『拝読 浄土真宗のみ教え』


母に抱かれて笑う幼子は、母の慈しみを信じて疑うことがない。

慈愛に満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いなる安心の中にある。

親鸞聖人は仰せになる。


聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑うこころなきを聞といふなり。またきくといふは信心をあらはす御のりなり。


南無阿弥陀仏は、【必ず救う、われにまかせよ】との慈愛に満ちた如来のよび声。

このよび声をそのまま聞いて疑うことがない、それを信心という。

自分の見方をより処とし、自分勝手な思いで聞くのであれば、如来の慈愛のよび声をそのまま聞くことにはならない。

母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声が、そのまま私たちの信心となる。


きちんと受け止めて行けるようになりたいですね。人間は「自我」というしぶとい欲がありますから、なかなか素直に阿弥陀如来のよび声をそのまま聞いて受け止めていくことが難しいのです。私たちのお母さんもお父さんも、私への親の願いを名前に込めて、どんなときもよび続けていてくださいました。

ですから私たちは、親を頭で覚えたのではありません。身心を通して親の願い、よび声を一身に受け取ったからこそ親を知り、忘れることがないのですね。


その姿はまるで阿弥陀如来が親のようなはたらきとなり、常に南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ、ナマンダブツ、とことある度に私をよび続けておられます。

どうぞ、南無阿弥陀仏を素直にお称えする私になって先立っていかれた懐かしい方々に安心していただきましょうよ。


これこそが、浄土真宗の仏縁に遇わせていただいた私たちが亡き人のためにさせていただくご供養ではないかと思っています。

お念仏は、【報恩感謝の念仏】といいます。

有難うという喜びを声に言葉にすれば、南無阿弥陀仏と私の口から現れてくださるのです。


決して広くもない、そしてお寺らしくもない布教所ですが、南無阿弥陀仏を喜ぶ人たちの憩いの場として、これからも入間市には超法寺がありますよね、と皆さまに言っていただけるように私の人生をかけて歩んでいきます。


今後とも何卒よろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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