top of page
執筆者の写真超法寺の住職

いつも抱かれて

皆さま、こんばんは。

今年も残りわずかです。3ヶ月を切りました。

またメリークリスマスとあけましておめでとうございます〜がやってきますね。

年があけたからめでたいわけではなく、今夜いのち終えても何ら不思議じゃないのに明日もいつも通り普通に朝を迎えることができる•••これこそがめでたいのです。


この世は諸行無常。無いことをどんなに願ってみても、やはり有ることばかりであります。

そして当たり前など一切ないのであります。


そんなことを思っていたら、木村無相さんの詩を思い出しましたのでご紹介します。

【おねんぶつ】

にょらいさんがわたしを おもっておもって おもっておもって くださるのがおねんぶつ

にょらいさんのおもいが わたしに とおって

とおってとおってとおって くだされたのがおねんぶつ


普段から何気なくお称えさせていただいているお念仏ですが、皆さまはどのような思いでお称えしておられますか。

まだ、愚痴を言う、他人の悪口だけは一人前に言うこの口が南無阿弥陀仏と声になっておられない方は多いのでしょうか。


お念仏は、称えよう、称えようと思っても称えられるものではありません。

たった六字(南無阿弥陀仏)なのに不思議ですよね。『般若心経』は声高らかに読める人は多いというのにね。


称えられる方は、すでに、いつも•どこでも阿弥陀さまとご一緒に生きていると伝えてくださっているのです。


まだ称えられていない方は、まだ阿弥陀さまを疑っている、跳ねつけているのです。


その有り様を木村無相さんは実に見事にあらわしておられるのです。


はねつけても、疑っていても、阿弥陀さまは、それでもそれでもそれでもそれでも•••と、はたらき詰めなのであります。

阿弥陀さまのご本願は、願いで出来上がっているのです。

その願いとは、わたしに救われてくれ、安心してくれ、しあわせになってくれ、全部引き受けたから、わたしにまかせてくれ!の願いであります。

助からない、救われない、この私を阿弥陀さまの願いは先回りして願い続けていてくださいます。

それでも気づこうとしない、できない私。

だから、私の一番身近で大切な人の姿にまでなられてでも、私を救おう!とはたらいているのでは•••最近そう感じるようになりました。


だからこそ、葬儀や仏事の場を通して、今まで聞くことのなかったお念仏(南無阿弥陀仏)を聞くことができたんじゃないかと思うのです。


私たち僧侶は、阿弥陀さまのお使い!

お使いとは自分勝手ではなりません。


私が子供のころ、母によくお使いへ行かされました。母は、メモに「ひき肉」と書いていたのに、私は何故かいつも?「小間切れ」を買ってきたそうです。

母は自分が考えていた献立を変更せざるを得なかったと笑っていました。

私は賢くないのです。

いや、自分勝手なんですね。

せっかくメモにまでして書いていてくれていたのに、それを無視してしまうんだから。

情け無いですね。


お念仏は、他力真実の信心であると『浄土真宗註釈版聖典』にはあります。

【念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり。】


【『正念』の言(ごん)は、選択摂取(せんじゃくせっしゅ)の本願なり。また第一希有(けう)の行(ぎょう)なり、金剛不壊(こんごうふえ)の心なり」


お念仏は、私にお願いしなさいということではありません。


親鸞聖人は、【念ずる仏まします】と領解(りょうげ)されました。


私が仏さまにお願いするよりも先に、仏さまの方から念じられていた私であったと阿弥陀さまのお慈悲を味わわれています。


だからこそ、お念仏は名号(みょうごう)であり、信心(しんじん)です。

念仏は正念(しょうねん)だと言われます。


少し難しくなりました。


仏は助ける!


私は助かる!


だからこそ、お念仏を聞いて、お念仏を称えてくれ•••なのですね。


木村無相さんの表現には頭が下がります。

お坊さんはダメですね。

難しいことを言えば満足するのだから。

閲覧数:26回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page